自#625「母子問題で苦しんでいる子供を、サポートしてあげたいという気持ちはありますが、民生委員になって、リアルにケアを担当するという決心はつきません。まあ、もう引退でいいだろうと、逃げ腰です」

           「たかやん自由ノート625」

 久しぶりに週刊誌(週刊新潮)を買ってしまいました。学校の職員室や社会科準備室で、週刊誌を読んだりは、さすがにしませんが、電車の中や、立ち寄ったCafeで、気楽にページを開いて、週刊誌のどうでもいいような三面記事を読んで、ほぼ無益な時間を過ごすのは、庶民のささやかなストレス解消法ですし、楽しみでもあると、素直に思っています。ほぼ無為な何の役にも立たない無駄な時間も、人には必要です。
 以前は、週刊文春、週刊新潮、プレイボーイの三つの週刊誌は、電車の中に吊り革広告が出ていました。この三つの週刊誌を、しょっちゅう読んでいたのは、吊り革広告で、面白そうな記事の小見出しを見て、まんまとこの広告戦略にはまって、電車を降りて、下車する駅の売店で、興味を持った記事が掲載されている週刊誌を、購入していたからです。 ですが、ここ1年くらいの現象ですが、週刊誌は吊り革広告を出さなくなりました。その一番、大きな理由は、乗客が吊り革広告を見なくなったからです。コロナ禍で、以前のような200%を超えるすし詰めの満員電車というものは、もう存在しなくなりました。まあ、これはいいことだと思います。まったく身動きできないというほど混んでいた状態が、解消されました。で、乗客の多くは、スマホを見ています。私のように文庫本を読んでいる乗客は、各車両にせいぜい一人か二人くらいです。スマホでゲームをしている人が、一番、多いんですが、興味関心のあるサイトを(それがエロでなければ)朝の電車の中で、閲覧している人もいます。無論、SNSのコミュニケーションも活発に行っています。当然のように、吊り革広告などには、目を向けなくなりました。
 吊り革広告はなくなりましたが、私が購読している朝日新聞には、週刊新潮と週刊文春の広告は、毎週、発売日(つまり木曜)の朝刊に出ています。週刊新潮、週刊文春は、ともにアンチ朝日新聞派で、朝日新聞を揶揄したり、批判したりする記事を、しょっちゅう掲載しています。朝日新聞という権威のある巨大なマスメディアに、何ら忖度することなく、批判記事を掲載するのは、それはやはりさわやかで、痛快ってとこもありますが、その批判している大新聞に、広告を出すって「どうよ?」とは、思ってしまいます。朝日新聞の方も、広告料さえいただけるなら、自社の批判記事を掲載している出版社の週刊誌の広告もwelcomeなわけで、これも、正直、ヘンだって気がします。結局は、まあ、なあなあの馴れ合いってことだと推測しています。
 私は若い頃、伊方の原発反対闘争のデモの現場で、組合の青年部の支部の書記長として、とんでもなくhardな体験をしましたが、ある日、突然、組合本部の中執から、原発反対闘争中止の指令が降りて来て、その時、やっと、「組合も、電力会社も、行政(愛媛県、高知県)も、銀行も、全部、グルで、見せかけの馴れ合い闘争を、自分たちは、現場で、猿回しの猿のように、やらされていただけだった」と、直観しました。エビデンスはありませんが(エビデンスを突き止めようとしたら、それだけで人生の半分の時間とエネルギーを使ってしまいます)間違いないと思っています。
 ですから、週刊誌の批判記事なども、テレビもヴァライティ番組のエンタメくらいの感覚で、軽く受け止めています。朝日新聞だって、きっと問題ありありです。アンシャンレジームの塊のような組織だろうと想像しています。が、別段、朝日新聞に限りません。組織も権力も、時間が経過すれば、必ず劣化し腐敗します。これくらいのことは、ローマカトリックの歴史をちょっと学べば、いとも簡単に理解できます。
 週刊新潮の今週一番の特集記事には「松田聖子と神田沙也加、母娘の光と闇」というタイトルがついています。神田沙也加さんが、事故死したのか、自殺なのか、その死因はまだ判明してません。が、とにかくお亡くなりになりました。人の死をネタにして、大儲けをするというのは、モラル的に「どうよ」とは思います。週刊誌を買って、その関連記事を読んでしまう私だって、正直、「オマエこそ、どうよ?」と、本来は、反省すべきです。が、人間は、弱い生き物です。食やアルコールの節制はできても、ヤジ馬根性の節制は、なかなかできなかったりします。
 母、聖子さんと、娘の沙也加さんは、ここ7年間、音信不通だったそうです。母子関係が、どろどろだったってことです。私自身、自分の母親との人間関係は、最悪でしたから、母と子が、ともすれば憎み合ってしまう、そのメカニズムは、生理的に皮膚感覚で理解しています。自分の母親が、死んだ時、爪の先ほども悲しさは湧いて来ず、60年以上続いた母とのバトルが、やっとこれで終了したと、ある意味、安堵しました。が、安堵と同時に、自分の人生の半分が、消滅しました。
 親が自分の実の子供を愛さないなんてことはない、親は常に子供を愛し、せいいっぱい努力している、といった風なことは、多くの母親の場合、真実だろうと思います。ですが、or notな母親も確実にいます。子供をちゃんと育てる気持ちもないのに、ついつい状況に流されて、子供を産んでしまい、この子供のために自分は不幸になったと考えて、ストレスを発散させるために、普通に子供を虐待してしまう母親は、世間のまともな人が考えているより、はるかに沢山います。
 私の母親は、私に普通に暴力をふるいましたが、それは、自分のストレスを発散させるためです。で、歳を取ると、そんなことはしてないと、シラを切りました。シラを切ったのではなく、本当に忘れたのかもしれません。人間は、自己中心的で、調子よく、自分にとって都合の悪いことは、忘れて行くと考えられます。
 沙也加さんは、「生まれ変わったら、何になりたい?」と質問されて、「自分以外の誰か」と、答えたそうです。松田聖子の娘としての自分が嫌で、自己肯定感が、持てなかったんだろうと推定できます。小さい頃から、次々と新しいパパが登場するわけですから、母親との愛情の絆が築ける筈はないです。そんな境遇で、自己肯定感を持つことは、まず不可能です。が、沙也加さんは、「アナと雪の女王」のアナ役の声を担当し、役者として、大きな仕事をしています。役者として、いい仕事をしている自分を認める、そういう方向で、自己肯定感を、持つことはできなかったんだろうかとは、やっぱり思ってしまいます。
 自己肯定感というものは、根拠がなくても、持つべきです。無理やりにでも持って、間違いなく、自分はいい仕事をしていると、自分をだまし、すかし、おだて、仕事に時間とエネルギーを注ぎ込み、で、ある時、ふと、結局の所、まあまあ、自分はいい仕事をしてたんだと、気づけば、happyな人生だったってことになります。強烈なまでの自己肯定感を持って、突っ走って、周囲に迷惑をかけるってこともあるのかもしれません。が、それは、多分、rareです。間違ったことはしてない、正しいことをしていると、信じて、進んで行くしかないです。中途半端で、何もできなかったというケースの方が、正直、最悪だろうと私は推定しています。
 母子の問題は、難しいです。少なくとも、私にとっては、人生で最大の厄介なテーマでた。

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