創#696「本を読む、音楽を聴く、画集を見る、そういう教養的activityが、自分を守ってくれて、青春時代の危機も、乗り切れたと思っています」

        「降誕祭の夜のカンパリソーダー440」

「オレは、今、二十歳で故郷を離れて、大阪で修業をしている。親には、お盆と正月に帰省した時にしか会えない。二十歳になれば、大人なのかもしれないが、大人になったと実感したことはない。いまだに、親に守られている子供だって気がする。ところで、オマエを見ていると、親に守られているという雰囲気は、少しも感じられない。父親はいないとしても、母親に守られているってとこは、まったくないのか?」と、Yは生真面目な口調で訊ねた。
「母親は、間違いなく自分の母親だ。オレは、病院じゃなくて、漁村の離れみたいな小さな家で生まれたから、他の子供と取り替えられたりはしてない。何があっても、図太く生き抜いて行く強い精神力と、エネルギーを、母親から受け継いでいる。母親の母親、つまりオレの祖母は、母親が小6の時に肺炎で逝去した。母親は、自分の女親のことは好きだったらしい。片方が、一方的に好きってことは、考えにくい。こっちが好きなら、相手も好きだろう。祖母も自分の娘のことが好きで、オレの母親は、親に守られていたと確実に言える。が、小6のある日、それが突然、消滅した」と、私はYに説明した。Yは黙って聞いていた。
「オレの場合、父親は最初からいない。オレは、生まれてから一度も会ったこともない父親のことなどは、考えない。向こうも、多分、同じだ。女の子とは、遊びたいが、子供などが生まれたら困る。まあ、これが男たちの普通の考えだ。オレだって、今、子供が生まれたら、身動きできなくなる。だから、そういうリスクは犯してない」と、私は正直にYに伝えた。
「が、お母さんは、オマエを産んだわけだし、産んだ以上、責任はある。自分の子供を守ろうとするだろう」と、Yが突っ込んで来た。
「子供を守ろうとする母親は、無論、いる。正確な割合は判らないが、9割くらいの人が、母親になった喜びを感じて、子供に愛情を注ぐ」と、私が言うと
「1割の人は、母親になった喜びを感じないってことか?」と、Yがすかさず聞いた。
「もっと少なくて0.5割くらいかもしれない。0.5割だと、20人に一人だ。20人に一人は、『何故、子供を産んでしまったんだろう』と、確実に後悔している。オレは、ごくごくちっちゃい頃から、『あんたは生まれるべきじゃなかった』と、母親にエンドレスに言われ続けて来た。まだ、やりたいことがどっさりあるのに、子供などが生まれたら、手かせ、足かせになって、自分の思い通り自由に生きて行くことができなくなる。この子が存在することによって、自分の人生が、台無しになってしまっている。とにかく、この子が憎い。だから虐待する。オレは小4までは、不良少年団のグループと付き合っていた。ただ、自分は、犯罪は犯してない。そこにいる子供たちは、例外なく親に虐待されていた。将来、少年院に行って、ヤクザになる、そういう未来予想図しか描けない子供たちだった。誰にも守られてないから、怖いものがないってとこも、間違いなくある。失うものがなければ、怖いものもないだろう」と、私はYに説明した。
「みんなが犯罪を犯しているのに、オマエだけが犯罪を犯さなかったのは、何故なんだ?」と、Yは、率直な口調で訊ねた。
「母親が、犯罪を犯さなかったからだ。母親は、嘘もつかない。人も騙さない。モノを盗んだりもしない。いくら虐待されても、母親の生活スタイルは、子供にコピーされる。ただ、母親は、唯一、恋愛の間違いを犯した。妻子ある男性と不倫をしたら、相手の家庭を壊してしまう。それは、間違いなく犯罪だが、彼女は、そのことには、気がついてなかった。勉強量が足りなくて、そういう知性が働かなかったってことだ。その点に関して、母親は、自分にとってはperfectな反面教師だ。自分の母親のようには、絶対にならない。しっかりとした教養を身につけて、きちんと筋を通して生きて行くと、保育園の年中くらいの頃から、決意していた。そのきっかけを与えてくれたのが、自死した叔父だ。保育園に入る前の年くらいに、表に絵、裏にひらがなで名前を書いた積み木を買って来てくれて、『とにかく早くひらがなを覚えろ。ひらがなを覚えたら本が読める』と、叔父に言われた。保育園の年小の頃には、もうオレは、本を読んでいた。当時の子供向けの本には、すべてひらがなでルビが振ってあった。叔父は、映画にも連れて行ってくれた。本を読むことと、映画を見ることを、叔父は教えてくれた。役目を果たしたと納得したのかどうかは、判らないが、オレが小1の時、叔父は自死した」と、私が言うと
「その叔父さんが、天国でオマエを見守ってくれているといった気持ちには、ならないのか?」と、Yは訊ねた。
「考えたこともない。母親が、自分の子供を虐待していることは、当然、叔父だって知っていた。父親がいなくて、母親にも愛されてない子供が、この先、どういう風に生きて行くのかと考えると、不憫だったんだろうな。自分自身は、この可哀想な甥っ子を、末長く見守ってやることはできないが、本を読むことと、映画を見ることの習慣ができれば、この子は、何とかカツカツ、幸せに生きて行けるんじゃないかと、皮算用したのかもしれない」と、私はYに伝えた。そして
「映画は、金も時間も必要だ。そんなしょっちゅうは見れない。あと、子供のオレには、情報量が多すぎるとも感じた。映画より絵の方が、気軽にてっとり早く見ることができる。絵は、図書館に行けば、画集が並んでいる。ラジオは、生まれた時から、傍にあった。ラジオというのは、戦争中は、どこの家でも、情報をいち早く得るために備えつけていたんだろうと思う。オレが、ラジオを聞いたのは、戦争が終わって、10年以上経過してからだ。ラジオは、とにかく音楽が沢山、流れていた。演歌や日本の歌謡曲とかは、別に好きじゃなかったが、「ワシントン広場の夜は更けて」みたいな外国の曲がかかると、耳を澄まして聞き入った。ラジオから流れて来る洋楽、それから本、画集、これらのものが、自分を守ってくれたかどうかは、即断できないが、家庭環境がどうであれ、学校生活がインチキで偽善だらけであれ、不良少年団との付き合いの気苦労がどうであれ、何もかもさて置いて、没頭できる文化世界を拵えてくれた。教養的な文化世界が、自分を守ってくれたとは、もしかしたら言えるのかもしれない」と、私はYに伝えた。

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