自#611「役所にいた時、かなり経理的な仕事をしていました。教員になって、経理方面に関しては、無能のフリをしていました。と、ふと気がつくと、本当に無能になってしまっていました。無能になるということも、つまり習性的徳(?)で身につくということです」

       「たかやん自由ノート611」(ゴシック式)

 今年は久々に、ヨーロッパ中世史を教えました。アートが好きなので、初期中世美術(ケルトアート、メロヴィングアート、カロリングアート)、ビザンチン美術、ロマネスク美術と、ゴシック美術など、時間軸に沿って、代表的な作品を、手持ちの美術集や、大判の写真資料などを使って、紹介しました。教科書を、ディスるつもりは、全然、ないんですが、教科書に掲載されているアート系の写真は、「?」って感じもものが多く、教員が捕捉しておかないと、ちょっとズレたままの印象で、生徒は、作品について知ったつもりになってしまうかもしれません。
 代表的な建築物として、ビザンツ式では、ハギアソフィア聖堂の内部の写真が掲載されています。ロマネスク式のピサ大聖堂やゴシック式のケルン大聖堂は、外観の写真です。ハギアソフィア聖堂の内部は、もうすでにイスラム風にアレンジされています。モザイク壁画などは、すべて剥がされていて、アラビア文字を描いた大きなメダイヨンが飾られていたりします。イスラム教徒は、礼拝の時、床に自分専用の絨毯を敷きます。ですから、椅子などはすべて撤去されています。つまり、ハギアソフィア聖堂の内部は、ギリシア正教のインテリアではなく、イスラム教徒が、礼拝する時のそれなんです。
 ケルン大聖堂は、背後の斜め三分の二くらいの位置から写しています。この方が、建物の構造は、よく分かるのかもしれませんが、授業で教える場合は、正面から撮った写真の方が、やっぱり望ましいです。今なら、普通にドローンも利用できますから、上空から、正面三分の二くらいの位置で撮れば、正面の様子も、全体の構造も分かります。
 ピサ大聖堂は、色大理石などを使ってあって、ハデです。主軸と翼軸の交差部分にドームを載せて、有名な斜塔も写り込んでしまっています。ロマネスク建築は、もっと地味で、なおかつ幻想的な雰囲気を持った建物です。山川の資料集には、シュパイヤーの大聖堂が掲載されていますが、こっちの方が、はるかに王道のロマネスクっぽいと言えます。
 ちなみに山川の資料集には、ランス大聖堂の受胎を告知する天使(ガブリエル)の彫刻の写真も掲載されています。ゴシック彫刻の中でも、1、2を争う、すぐれたアートです。もう焼けてしまいましたが、パリのノートルダムの薔薇窓のステンドグラスも、安っぽくならないように、これじゃどうもよく分からないと思わせてくれる写真を、使っています。普通に分かる写真を使うと、ステンドグラスの絵は、たちどころに安っぽくなります。光の芸術を、写真で現すことは、不可能です。どうもよく分からないって感じの写真の方が、生徒にはより親切だろうと思えます。
 学校で使っている資料集には、ゴシック様式は13世紀~15世紀と書いてあります。ロマネスク式が、11世紀~12世紀なので、その後ってことにしたのかもしれません。が、これは決定的に間違っています。ゴシック式が始まったのは、12世紀の半ばです。12世紀の半ばから、13世紀の半ばが、ゴシック式の最盛期です。15世紀より後とかって、ゴシックみたいな・・・って感じです。教科書に写真が出ているケルン大聖堂が完成したのは19世紀の終わりです。資料集の方にも、ゴシック式の代表建築は、ケルン大聖堂と、まず一番に名前を挙げています。まあ、昔からきっと、こうなっているんだと思われますが、ゴシック式の代表例は、まずパリのノートルダム大聖堂、次がランス大聖堂、で、ステンドグラスに注目すれば、シャルトル大聖堂です。
 もっとも、我々が高校生の頃、カラー版の世界史資料集などは存在してませんでした。カラー版の印刷物とかが、そもそも珍しかった時代です。保育社からポケット版のカラー文庫が出ていましたが、全面カラーページというわけではなく、カラーとモノクロが、半々の割合でした。教科書は口絵のみカラーで、本文に添えてある写真は、すべて白黒でした。が、白黒だから、より想像力を掻き立てられたってとこもあります。それにアートを写真で表現することに無理があるという、そもそもの大問題もあります。
 私は、奈良のお寺の写真などは、白黒でしか見ません。カラーで、奈良のお寺を表現できるとは思ってません。奈良のお寺は、実際に自分の目で、かつて見ていますから、カラー写真などの劣化した情報で、あとから上書きされても困ります。人間は、弱い生き物です。後から何度も何度も、劣化した情報を刷り込まれると、それが、結局、身についてしまいます。ヒットラーは、嘘の情報であっても、大きな声で、何度も何度も繰り返せば、大衆はそれを信じるようになると、著書の中で述べています。劣化した情報に近づかないことも、セキュリティのための正しいメソッドです。
 教科書や資料集の写真で、安直に分かったつもりになっても困るので、美術集などの印刷のすぐれた資料を使って、アートというものは、結局、自分の目で本物を見ない限り、絶対に分からないものだということを、伝えようと努力しています。この世の中は、分からないことだらけなんです。それをまず、素直に認めることが、知の世界に入って行く、最初の一歩です。これは、ソクラテス以来変わらない、学びのための王道です。
 J高校の担任時代、もうクラスの生徒は、卒業間際だったんですが、受験が終わった男子生徒と一緒に、一階の吹き抜けに、段ボールを使って、ゴジラを制作して、飾りました。本当は4階まで届く、巨大なモニュメントを拵えたかったんですが、技術的にも時間的にも不可能で、二階の手すりにようやく届くくらいのスケールでした。が、まあ、それなりに感動できる大きさでした。で、卒業式が、終わった後、みんなでボコボコに壊しました。大きいものを拵えて、それをボコボコに壊したいという願望が、人間のDNAには刷り込まれているのかもしれません。ロマネスク式やゴシック式の建物や彫刻は、フランス革命の時に、かなり壊されてしまいました(有名なクリュニュー教会の建物は、この時に破壊されています)。
 どでかい建物なんて、要するにはったりかもしれません。が、たとえはったりでも、強烈なpowerがあったりします。ミラノで大聖堂を目の前で見た時、その迫力に圧倒されました。ヒットラーの言うように、これが嘘でも、信じてしまいそうになります。京都で、初めて東本願寺のどでかい建物(講堂)を見た時、真宗の勢いを痛感しました。天平のたとえば唐招提寺などに較べて、美術的な価値は、たいしてないと、頭で理解していても、その大きさには、やはり心を揺り動かされます。私は、リムジンに乗ったことはありませんが、ああいうド派手な、大きな車に乗りたいという願望は、誰にだって、普通にあるような気がします。
 とんでもなく大きな大伽藍の中に入って、光のマジックを使った、聖書の物語を、色ガラスを通して、何度も何度も教えられ、刷り込まれたら、やっぱり信じるようになってしまいそうです。最初は、信じているフリのつもりだったとしても、ミイラ取りは、簡単にミイラになってしまいます。
 私は、役所時代、経理方面の仕事を、かなりこなしていました。半分、経理のエキスパートだと言ってもいいくらいでした。教員になって、経理方面の仕事は、できないというフリをしていました。と、いつの間にか、本当にできなくなっていました。信仰だって、フリから入って、本物になることだって、多分、往々にしてあります。

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