創#782「35歳の冬、部屋が焼けて、家財道具を一切失った時、火事の火元の男性にも、家主にも一切、賠償などは請求しませんでした。欲がないと言えば、まあそれはそうなんですが、ゴタゴタすることによって、エネルギーと時間をかけることが、嫌だったんだろうと判断しています」
「降誕祭の夜のカンパリソーダー527」
「公案と言うのは、一体、何なんだ?」と、Yが訊ねた。
「形而上学的な問題のことだ。お釈迦様が仰った『無』について、考えるのが、最初の問題ってケースが一番多い」と、私が言うと
「無なんだから、考えられないだろう?」と、Yが応じた。
「オレは、公案を貰ってないし、本当の所、突き詰めて考えたことはない。が、坐禅をしていると、ちみもうりょうに取り巻かれる。このちみもうりょうを消滅させるためには、どうしても、無を体得しておく必要がある。しっちゃかめっちゃかな妄想だって、all clearしたい。すべてを、無が解決してくれるなら、無に正面からぶつかって取り組みたいって気持ちはある」と、私が言うと
「が、無なんだから、実際は取り組めないだろう。無という問題を設定していることが、そもそも矛盾している」と、Yが言った。
「無を考えるよりは、英単語を覚えて、英会話のレッスンをし、法律や経済の仕組みをしっかりと学んで、社会のために、何か役に立つことができる人間になることの方が望ましい。できれば、出世とかもして、多少なりとも、お金持ちになった方が、普通に幸せだ。親だって喜んでくれる。が、今の時代、インドを放浪しながら無を追求している若者だって現実には存在する。無は、仏教の世界観の根底にある動かせない真実だと想像できる。西洋のヘブライズムの一神教の神は、それとは、対極の存在だ。仏教は、絶対の無だが、ユダヤ教やキリスト教の神は、絶対の有だ。方向性がまったく真逆だ。東洋だって西洋だつて、根本は同じ種の人間なのに、真逆の考え方をするのは、何故なんだ。オレは、絶対の無も知りたいが、絶対の有も見極めたい。両者が、両立せず、矛盾していることは、一目瞭然だが、この矛盾に取り組みたいと考えている自分を、否定することはできない。だから、禅寺に通って坐禅をし、キリスト教の教会の礼拝にも出席している。もう、5年半くらいそういう生活をして来た。この生活スタイルが矛盾していることは明らかだが、別段、オレは誰にも迷惑をかけてない。ジョンスチュアートミルが言う他者危害原理に基づけば、他者に危害を与えない限り、個人の自由は制約されないってことになってる」と、私が言うと
「絶対的な無を追求するのも、絶対的な有を探し求めることも、本当は不可能だろう。結局、どっちの方向を目指しても、ストレスを感じるんじゃないのか。ストレスを感じているから、声を出して歌って、ストレスを発散させる、そういうことか?」と、Yが私に訊ねた。私は、少時、頭の中で考えてみた。そして
「多分、どちらにもストレスは感じてない。ストレスは、人間関係のゴタゴタ、軋轢から発生するものだろう。漱石の『明暗』を読むと、主人公の津田は、奧さんの延子を、一応、愛しているのに信じ切れてない。延子も同様だ。そこに、津田の元カノの清子が現れる。津田は、奥さんの延子も、元カノの清子もどっちも愛してる。が、奥さんの延子は、二人の女性を同時に愛している夫の自由を認めない。自分以外の女性を、愛するのは裏切りだと考えている。この小説は、未完だ。問題を投げ出しておいて、作者の漱石は、胃潰瘍で逝去した。この話の結末は、いろいろなstoryを想定することができる。延子が、家に火をつけて、三人とも焼死するという結末は、まあsimpleかもしれない。延子が、清子だけを殺すこともあり得るし、津田が元カノの清子と結託して、延子を殺害するというstoryも考えられる。清子と延子が決闘をして、相撃ちで、二人とも死ぬということは、考えにくいが、二人が、偶然、交通事故死するとかはあるかもしれない。そうすると、津田は、二人のことなどは、さっさと忘れて、新たなパートナーを見つけて、勝手に幸せになるって展開もある。男が一人、女性が二人のたった三人の登場人物だって、相当、多くの物語を考えつくことができる。そのstoryが展開している時、三者ともに、日々、ストレスを感じている筈だ。男女の恋愛とか、色、恋が絡むと、どうしたって、ストレスが発生する。無や有はいくら考えても、誰にも迷惑をかけてない。すべて自己の内部で展開して、完結する、いや完結はしないかもしれないが、そういう類いの追求だから、ストレスを感じる筈がない。現実、禅寺で坐禅をすることも、キリスト教の教会で、聖書を読むことも、1ミリもストレスは存在してない。これは、まったく仮定の話だが、オレが由利子さんを好きになって、光次先輩から由利子さんを奪ったりしたり、光次先輩も、由利子先輩も、オレも、超ド級のストレスに苦しめられることになる」と、私が言うと
「最悪、三人で、多摩湖に入水ってことに、なるかもしれないな」と、Yは真顔で言った。「まったく仮定の話だと断った筈だ。そう真顔になられて、深刻に受け止められても困る。サークルの中で、村八部になるくらいのペナルティで、とどめておいて欲しい」と、私は笑いながら、Yに要求した。
「多摩湖の入水は、それこそ仮定の話だ。が、圭一の略奪愛みたいな事件が起こったら、間違いなく、サークルは活気づく」と、Yはあくまでも私の仮定の話に固執した。
「オレは、歌が下手だから、サークルからfade outしても、no problemだが、光次先輩も由利子先輩も、各パートのキーパーソンともいうべき歌い手だ。あの二人の歌を残すために、たとえオレが由利子さんを好きでも、あっ、あくまでも仮定だからな、告白せず身を引くべきだろう。ローマの休日だって、グレゴリーペック扮するジョーは、オードリーヘップバーン扮するアン女王から、カッコ良く去って行くじゃないか。ローマの休日はハリウッド映画だが、身を引くのは、本来、日本の美学だろう」と、私は仮定の話の中で、勝手に身を引いて、得意な気分に浸っていた。
「そんな風なむちゃくちゃな発想をする奴は、確かに、日々、たいしてストレスは感じてないのかもしれない。圭一は、ストレス耐性があるというよりも、ストレスを巧みにすり抜けるスキルを身につけてる。努力で身につけたとも思えない。それは、圭一の持って生まれた才能だな」と、Yが断定するように言った。
「ストレスを巧みにすり抜けるのが、オレの才能とかと、かつて言われたことはないが、まあ確かにそうかもしれない。苦労することは嫌じゃないが、人間関係のストレスが襲って来ると予測できる時は、確実に避けて距離を置く。ストレスがあると、頭も働かなくなるし、身体も思うように動かなくなる。そういう無駄なことを、多分、本能的に避けているんだろうな」と、私はYに返事をした。