天獄 第5話
「あー、ごくらくごくらく」
湯船に身を沈めると、勝手に自分の口から言葉が飛び出してきた。
幸せは一瞬。
この湯船に入った瞬間に訪れる幸福感。冷えた身体がお湯に触れた途端、心地よい温もりに包まれる。肌にお湯がシュワシュワと染み込んでくるようだ。この瞬間に感じる、絶頂にも似た気持ち良さ 。この一瞬の多幸感が堪らない。
だけどこの幸福はこの湯船に入った瞬間だけ。しばらく幸福感に浸っていると、いつの間にかその有難味はどこに行っている。気づいた時にはお風呂の温かみに身体が慣れてしまい、それまであった刺激は怠惰なものに変わってしまう。
絶頂はずっとは続かない。幸せは一瞬で、それが続くと、それに慣れてしまう。快感も幸福感もマヒして、気づいた時には感じなくなっている。
ずっと続く幸福などない。幸福だと思っていたものに慣れてしまうと、それはいずれ普通になるのだ。慣性は毒だ。普通という甘い毒になる。普通が訪れると途端に人は刺激を求め出す。もしくはその普通に溺れていく。そんな怠け者もいるだろう。
だからこそ、幸せは一瞬なのかもしれない。
シャングリラの温泉施設に来ていた。
ここに来る前、仕事が多忙すぎて旅行にも行けなかった。このシャングリラと呼んでいるリゾート施設に来る事自体が旅行そのものといえる。ここに来てようやく大の温泉好きであることを思い出した。ここのお風呂は、温泉旅館顔負けの大小さまざまな多彩な湯船が用意されており、お湯の種類もこれまた多様にあって迷うほどだ。全部に入ろうと思ったら一日では足りないのではないかと思える。
「逆にのぼせてしまいそう」
人一人入れる湯船に浸かり、私は浴室内を眺めた。
何人も客がそれぞれ入浴を楽しんでいた。カフェにいる時は気付かなかった。こんなに人間がいるなんて。入浴時に湯衣の着用を求められていたのを不思議に思っていたが、男性も女性も関係なく施設内を歩いているところをみると、浴室を男女で分けている訳でないようだ。
面白いことに、ここに来る者たちは互いに顔を知らぬ者がほとんどのようで、どの客も互いにある程度の距離をとって動いていた。
冷めることの無い湯船。心地よい水温。湯休めに湯から出ても、湯冷めすることなどない。ちょうど良い温度に管理された室温。望むならずっと湯船に入っていられる。何なら途中で冷たい飲み物やお酒も飲むことができる。食事も出来る。全ては仰せのままに。
極楽とはよく言ったものだ。ここに苦患はない。この地にあるのは甘い欲。欲に溺れるためにここにいるのだ。欲に溺れた魂はいつしか飴のように溶けてしまうのだという。そうして溶けてしまった魂は一体どうなるのだろうか。その先の行方など知らない。けれども例えその先があの世だったとしても、どうせ死には違いない。天獄であろうと地獄であろうと、あの世はあの世だ。
この魂はいつ溶けるのだろう。この夢のような魔法はいつ解けるのだろう。
温泉の浴室内を歩く。
むあんとした湯からくる熱気が時折顔や身体にかかる。歩きながら湯船に使っている客たちをちらりと垣間見た。
どれも心地良さそうな顔をしていた。男性も女性も。いや、あれは本当に男性だろうか、いやそれとも女性だろうか。そこに浸かっている客たちから性別という隔たりが抜けていっているように思えた。性を感じられない。
「そうか。だからここは男女混浴なのか」
混浴だからと言って、この温泉で良からぬことをする者はいないのだろうか。既に性欲は満たされた後なのか、それとも性が抜けたから必要ないのか、性を感じさせるような人はいなかった。
でもここに来る者全てが性欲から抜けたものではないはずだ。そういう人たちはどうするのだろうか。
温泉内の一方が一面ガラス張りの窓になっている。窓の外は部屋から見えていたのと同じジャングルのような森が広がっていた。時間帯によれば日の出や日の入り、朝焼けや夕焼けなど、絶景を見ることができるようだ。
今は、青々しい森の緑と、清々しいほどの空が見える。
大きなガラス張りの窓の横にこれまた一面、鏡張りの壁がある一角があった。その壁の中に、同じように鏡が張られた扉があった。よく見ないと見落としてしまいそうな扉だ。
鏡に自分の姿が映る。自分の姿に目を背けながら、私はその扉の中を覗いてみた。そしてすぐにそこから顔を引っ込めた。
見てはいけないものを見た。
そこは性の欲望を満たすところだった。
一気に嫌悪感が襲ってきた。
私は足早にその一角から離れ、そこから一番離れた湯船に飛び込んだ。でもそれで正解だった。気が付いたらテラスに出ていたようで、そこはいわゆる露天風呂だった。湯船内は編まれたラタンが敷き詰められており、まるでソファに座っているようだった。
時折、森から動物たちの声が聞こえる。お湯で火照った頬に涼しい風が当たった。
「気持ち良い」
だけど、暗い気分になった。森の動物たちの声だって、交尾の声かもしれないのだ。彼らにとってそれは生の営みで自然なことでしかない。それなのに、いざそれが人になると欲望にしか見えなくなる。何か汚いもののように思えてしまう。
これが、私が最後の欲である性欲に手を出すのを躊躇っている理由だ。
性欲は悪。そう思ってしまう私は虚しい。それでも恋だの愛だので心が煩わされることも虚しいと思う。
「お客様、お待たせいたしました。お飲み物をお持ちしました」
聞きなれた声だった。二つとなりの湯船にいる客へ話しかけて居るのは、あの素敵な低音ボイスだ。
普段はこんな風に働いているのね。
「あなた素敵な声ね」
そう言った客が振り返ってその声の主を見る。そして顔を歪めた。
「声だけは良いのね」
「ありがとうございます」
ぽっちゃり体系で中背のスタッフは慣れた様子で、注文の品を湯船脇にあるテーブルへ置いた。
「少しは痩せたらいいのに」
スタッフは頭を下げるとさっと気配を消すように去っていった。
私の肉布団が詰られている。そう思うと腹立たしくなってきた。
見た目だけで判断しやがって。彼の良さをこれっぽっちも分かっていない。彼がいないと眠れぬほどなのに。
私はその客を物陰からきっと睨むと、彼が消えていった方を見た。
他のスタッフ同様、もう彼の姿は無い。
「昼間、温泉であなたを見たのよ」
「それはお恥ずかしい姿をお見せしました」
その夜、肉布団の彼を部屋に呼び出した。いつものようにベッドの中で彼の肉布団に包まれていた。もうベッドの中でのピロートークもお決まりになっていた。
「とんでもない。この体がないともうぐっすり寝られないの。それくらい私には大切な体なの。あなたがいないともう眠れないの」
「そう言っていただけるのはあなた様だけです」
耳もとで彼の素敵な声がささやく。ゾクゾクっと首筋を何かが走る。
「誰もあなたの良さを分かっていないのね。でもそのお陰で私はあなたを独占できるんだもの。出来ればずっとあなたを独り占めにしてたいと思うくらい」
「はあ」
「これって独占欲よね?また一つ欲をクリアしたことになるかな」
このままこの独占欲に溺れていたいと思った。ずっと彼に傍にいて欲しいと思った。
「ねえ、こうやってあなたを独り占めしてるのって迷惑?」
「いえ。私もあなたがご指名して頂いているお陰で、他の肉体労働をしなくて済むのですから、助かっています。こうやってベッドで寝ているだけでいいなんて、とても楽な仕事ですから」
「そう言ってくれると、私も心置きなくあなたを指名できるわ。だけど、あなた方の勤務形態ってどうなってるの? 労働の対価は大丈夫なの?」
「それは……」
彼は戸惑っていた。
彼に背を向けて横になっていた体をクルリと向きを変え、私は彼と向かい合うような体勢になった。
相変わらず彼の顔を見ることはできない。それでも彼が困惑の表情をしているだろうことは汲み取れた。
「難しいこと聞いちゃったかな」
「はあ」
どうやらこのシャングリアの核心を突いてしまったのかも。
それでも私はじっと黙って彼の顔があるだろう場所を見た。彼が答えてくれるまで。
彼らは顔をじっと見られるのを嫌がる。
そっと顔を逸らす彼。
猫みたいだ。
「はあー」
仕方がないといったふうに彼がため息をついた。
「僕らに休みなどありませんよ。そんなマトモな世界ではないですから。人間社会の人権守られた概念とかそういうものはないんです。なんせここは天獄ですからね。僕らは人に見えますが、人じゃない。天獄にいるからって天使でもない。どちらかというと、あなた方の概念から言うと鬼ですね。鬼に近いかな」
「鬼なんだ」
「まあ、鬼といっても看守とかそっちのほうがしっくりくるかも。僕らはあなた方が魂が尽きるのを待っているのですから」
天獄とはいわゆる天国とは違う。この世にもあの世にも天国はない。
いわゆる天国に当たるところは命が、魂が還る場所。命が終わった魂が昇天して向かうところ。そこに極楽はない。何もない。還ってきた魂が一つに集まる場所。そしてまたそこから命が生まれていく。
そして天獄とは、天寿を全うできなかった魂が来る場所。寿命を待たずに自ら命を経ったものが、底で命を尽き、魂の炎が尽きるのを待つ場所。
魂に付いている全てを落とさないと重くて昇天できないのだ。この世の未練を全て終わらせなければ、天国まで昇ることはできないのだ。 では地獄とは。地獄はこの世で悪に落ちた魂が悪を落とすために行く場所。そこは苦患に満ちている。悪を落とすことは並大抵のことではない。ゆえにそこで苦行をして魂を禊がなければ天国へ、魂が還る場所へ昇れないのだ。