【詩誌評】「アンリエット」について

もう、いいですよね?そろそろ、書いても、いいですよね?

先日、わたしは、峯澤典子さんと髙塚謙太郎さんの詩誌「アンリエット」について、メモのようなものを上げました。どうしても、その感動を書き残しておきたかったからです。それは発売の翌日ということもあり、まだ手に取っていない方もいらっしゃると思ったので、内容に深く立ち入ることは避けました。でも、そろそろ、いろいろな方の感想も出始め、峯澤さん、髙塚さんによる、刊行にまつわるお話も出ているので、思いっきり、この詩誌について書きたいと思います。

わたしのような浅学の者が断言するのも何ですが、これは、まちがいなく、現在の日本で最高峰の二人の詩人が作った最高の詩誌です。ある意味では、詩壇を超えて、いま、詩を取り巻くあらゆる状況に対する挑戦でもあります。これが、詩だ、詩誌なんだと、そういうお二人の詩人としてのプライドをかけた意気込みが伝わって来て、思わず襟を正します。詩を取り巻く状況、ということは、究極は、ことばを取り巻く状況ということでもあります。お二人がここで紡がれる日本語の、何と美しいことでしょうか。

誤解を恐れずに言えば、わたしは、最初にこの詩誌を読んだときに、相聞の歌のやり取りのように見えたのです。最後のページに目次があるのでそれを確認すればわかるのですが、編集にとても工夫が凝らされています。それにしても、たんなる連詩ではなく、相聞の歌、とわたしが捉えたのはなぜなのでしょうか。それは、髙塚謙太郎さんの二つの論考「森川葵村『夜の葉』について」「三井葉子の詩について」によるところが大きいのです。髙塚さんはここで、まちがいなく、日本の文学の伝統に連なる、浪漫的なものを受け継ぎ、捉えている。詩にもそれが現れています。そしてそれが、峯澤典子さんの詩にも、これまでの詩とはまた違った情緒をもたらしているのです。

この「アンリエット」の不思議なところ、素晴らしいところは、そのタイトル、装丁ともにはっきりと「洋」を志向しているにもかかわらず、中を開くとそこには「和」の世界も広がっている。その奥深さ、世界の広さにあります。それは、時間や空間、ジャンルも軽々と越境します。まさに、この時代の詩誌にふさわしい一冊と言えるのではないでしょうか。さきにわたしが、「挑戦」と書いたのもここにあります。叩き上げられた思考、綿密な計画、何よりそこに収められた詩の完成度。すべてにおいて、ここには本物の詩、そして詩誌があります。みんなこれを読めよ、少しは勉強しろよ、と言いたい。何様ですが。

峯澤典子さんの詩が新しい世界を見せてくれたことは、わたしにとっては最大の喜びでした。峯澤さんの詩は、たとえ、ことばとして書かれていても、具体的な国や時間を志向しません。ひそやかに、しかし、誰にも書けない世界がそこにはあります。峯澤さんの詩を論じる困難さもここにあります。そんな峯澤さんのことばが、髙塚さんのことばに誘発されるように、新しい世界を見せている。これが喜びでなくて何でしょう。とくにわたしが好きなのは、「雨季」「空き部屋」です。一節だけ引用させていただきます。

これは すみれ れんげ しろ つめくさ はこべら にりんそう

ひとりきり の帰り道
つなぐ手のないことに傷つかないように
摘める花の名を
わたしはさいしょに覚えた   
(「帰り道」)

ひとつ また ひとつ 人のことばを忘れながら すべての人と別れ ようやくたどりつく わたしのなかの 駅のない町 だれもいない空き地 遙かな焚火のあと(かつてそこにはわたしの家があった)燃えつきた無数の燐寸と 残る窓ガラスの破片(そこにはわたしが生まれた部屋があった)手をかざすとまだ あたたかい(わたしは もう少し 生きるのだろうか)
(「空き部屋」)

どうしてこのような詩が書けるのでしょうか。わたしはいちいち立ち止まっては、詩集(あるいは詩誌)を抱きしめ、ため息をつきます。難しい単語など一切使わずに、誰にも書けない詩を、峯澤さんはいつも見せてくれる。しかも、だんだん、進化しています。書かれている上っ面だけを読んだのでは到底わかりませんが、ひとつひとつのことばへのこだわりが、この方は尋常ではありません。これぞ詩人です。詩人は、内容を伝えるのではありません。題材など二の次。大事なのは、ことばそのもの。

文学者は、本質的には不良です。本物は、守りに入ることをしません。常に進化し、前進し続けています。最後に、失礼を承知で、あえて、最大級の賛辞として書かせていただきます。峯澤典子さんも、髙塚謙太郎さんも、本物の、とんでもない不良です。生半可な気持ちでは太刀打ちできない。そんなカッコいい二人の大人、二人の詩人が作ったのが、この「アンリエット」なのです。


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