【詩集評】田中淳一『ぼくは健常者』をめぐって

この感情を、何と表現したらよいのか。この詩集を「おわりに」まで読み終えて、わたしは何ともやりきれなかった。しかしそれは決してマイナスの感情ばかりなのではなかった。愛しさやせつなさでもあった。文学とは、何も、文字で書かれたものだけを指すのではない。切実に生きること、いわば、志や態度の問題なのだ。それを再認識させられた。

田中淳一さんは言う。「ほとんど素材だけで成り立つこれら一連の作品を、果たして「詩」と称していいのかという思いはある。人の想像力は無限だ。時空を超えてどこまでも飛躍できる。しかし往々にして、経験がブレーキをかける。そのためリアルが想像を超えることになる。ともあれ詩は、弱者の文学でもある。声をあげたくてもあげられない人の代弁者となれるならば、詩であろうがなかろうが私には十分である」。しかし、ここには、紛れもなく「詩」があり、これは間違いなく「詩集」であった。

圧倒的現実の前に言葉を失ってしまう。付け焼刃の信念や思想など、脆くも崩れ去ってしまう。それでも何とか言葉にしようとする。実に、そこにしか、本物の詩はないのではないか。

『ぼくは健常者』は、「わかば~精神薄弱児対象の養護学校にて」と、「結~障害者就労支援の作業所にて」の二つのパートから成り立っている。ここに広がる世界は、かつて、数々の教育困難校で働いて来たわたしにとっては、決して他人事ではなかった。そういった学校に勤めている間、わたしはほとんど「文学」らしきものはできなかった。しかし、その13年間の日常や生徒の人生は、文学よりもずっと文学的だった。

田中さんのような大先輩がこのような詩を残してくれたことは、わたしにとって救いである。田中さんは、自分を取り巻く人びとを見ているようでありながら、自己の内面を苛烈に見つめている。それは、差別や偏見が、社会の問題だけではなく、個々人の内面に深く根を下ろしたものであるという次元にまで、読み手を連れて行く。その世界は不思議なほどに透き通っている。時に、恐ろしいほどに。

「僕は君らを愛せるだろうか/君らは僕を愛せるだろうか/生理とは正直なものだから/君らの双眸に映った僕の姿を/僕は恐れる」(「覚書Ⅰ」)
「点呼が始まった/誰も自分の名前を知らないので/点呼に応じる声はない/それでいて/滞りなく点呼は終わった」(「点呼」)
「僕たちはいま/ガラス板一枚で隔てられたこちら側にいる/壁にはモノクロの版画/左右の反転した鏡像/障害を望んだことなどなくても/障害は受け入れるほかない/大半は意味をもたない擬音だった/暗号の解析は一向に進まない/障害の克服などできるわけがない/それでもいつか猛った音をなだめられるかもしれない/彼はきょうも音をメモしている」(「備忘録」)

言葉に対する思いやりは、誰かに対する思いやりでもある。言葉に誠実であるひとは、きっと他人にも誠実であろうとするはずだ。そうでなければ、詩人を名乗る資格はない。田中淳一さんの詩は、決して遊びではない。必死になって生きた証である。この『ぼくは健常者』という詩集は、障害を抱えた人たちを詩に書くことで、逆説的に「詩人・田中淳一」を浮かび上がらせているのである。


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