【詩集評】橘しのぶ『水栽培の猫』

橘しのぶさんのなかには、永遠の少女がいるーーそれが、この詩集を読んだわたしの、第一の感想だった。無垢でありながら、大人の世界を早くから見てしまったように老成した、大きな眼を持つ、ちょっと小さな痩せっぽちの少女。わたしは橘さんにお会いしたことはないのだから、勝手な想像はどうかお許し願いたい。子どもは、生き物だ。大人よりも、ケモノに近い、と言ってもいいかもしれない。それはつまり、死が身近にあるということと同義である。詩集『水栽培の猫』に収められた作品には、どれも、透明な死の匂いがつきまとう。ときにそれは艶やかでさえある。

たとえば、詩集の題名にもなった、冒頭の「水栽培の猫」。「血管もはらわたも/とうめいなのに/胸のあたりに耳をあてると/とくんとくんと鳴っている/抱いて寝るとほかほかだ/けれどいつかは/つめたくなるのかな/想像したら泣きそうになった」という一連がある。水栽培の猫、というものは、もちろん、この世には存在しないものだ。しかし、それをたんなるメルヘンチックな詩にしていないのは、こうした箇所のリアリティなのだ。これも勝手な想像だが、ここは橘さんの実体験をもとにしているのではないか。厳粛な生と死の重みが、実はこの作品の裏にぴったりとくっついている。だが、あくまでも、軽やかに。

いささか個人的な話になるが、わたしは超リアリズムの詩が好きである。なぜなら、それこそが、詩の醍醐味のひとつではないかと思うからだ。いささか専門的な話になるけれど、小説や物語は、どうしても現実や日常生活というものに磔にされてしまう。詩はそれを超えていくことができる。橘しのぶの詩は、基本的にはそうした世界で構成されている。だから、わたしは、この『水栽培の猫』を、どれも楽しく読んだ。ときどき、その素晴らしさに、悔しいなあ、うらやましいなあ、などと思いながら。以下、わたしの好きな作品から、ほんの一部だけを紹介する。

「ろくねんせいになったら。うたいながら私を槍で、つきはじめる。けれども、面の穴からのぞく眸は、泣きあかしたように赤く優しい。突かれて衝かれて搗かれて憑かれて、春のオブラートに包まれて、うとうととすべりおちかけては縋りつき、疲れはてるまでに捏ねまわされて、掌の上でまろくまっしろい繭になって、眠りこけるべき、だったのかもしれない。どうしてもなれなかった。ろくねんせいに。」(「花影婆娑」)

「インターホンの音で目がさめた/そとに出たが誰もいない/玄関前に立方体の匣が置き配されていた/こわごわあけたら中に わたしがちんまりすわっていた/匣は さいころみたいにころがりはじめた」(「匣」)

「球根がひとつ/シーツのまんなかにころがっていた/男は山に芝刈りに行ったきり帰らない/わたし一人にベッドは広すぎる/余白によけいなものがまぎれこむ/眠れない夜のひずみに根づいて/あられもなく花を咲かせる/真冬の水の匂いがする」(「ヒヤシンス」)

橘さんにとっては、生と死がまったく対極のものでなく地続きであるように、時空も、自在に飛び回ることができるのだ。「伊勢物語」をはじめ、「蜻蛉日記」、小野小町の歌、童歌、それらをもとに書かれた詩は、どれも、いかにも作りました、といった印象を受けない。自然である。古典が、生きることの一部になっているという感じだ。橘しのぶの眼に、この世界はどのように映っているのだろうか。そういう意味でも、『水栽培の猫』は、詩人・橘しのぶの魅力と可能性を存分に引き出した詩集だと言えるだろう。

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