【詩集評】中田満帆『不適当詩劇』

中田満帆の詩は、詩ではない。それは、いわゆる、「詩壇」なるものに属するような表象でもなければ、「#詩」というタグのもとに日々SNSで垂れ流される言葉らしきものの羅列でもないという意味において、である。これは、いわば、孤高の魂の刻印である。だが、それこそが、本来、「詩」と呼ばれて来たものではないだろうか?本物の詩に出会いたければ、中田満帆の詩を読め。

わたしが中田さんの書くものに最初に惹かれたのは、ふとしたきっかけで知った歌誌『帆』第3号の序文であった。そこには、ぎらぎらするような「文学」があった。現代ではなかなかお目にかかれないような言葉のカタマリが、そこには叩きつけられていた。しかし、読んだときに、わたしは、本物の文学だけが持つ不幸を思わずにはいられなかった。そこには、商業主義に骨の髄まで毒された現代の文学に阿るような態度が微塵も感じられなかったからである。はっきり言おう。わたしは彼に嫉妬する。彼のような詩人がいるならば、わたしなんぞが詩を書く必要はないとさえ言いたいくらいだ。

そんな中田満帆の詩集である。わたしが心を打ち砕かれないはずがない。巻末の花島大輔による「解題」も必読である。もはや絶滅した無頼派が、ここにはまぎれもなく生きている。こんなに、どの作品もいい、好きだ、大好きだと思わされる詩集にはなかなか出会うことはできない。読むと、血の涙が迸る。腑抜けどもにこの詩群を読ませてやりたい。本当は、すべての作品を引用したいくらいだ。試しに、いくつか書き記してみようか。

「おそらく、/夢であることの悲しみは/だれもない室で展いた本みたいなもの/町の中心で戦争が始まったから/エールとビールを開けて祝福する/ひとを憎悪にかりたてるすべてが好きだ」(「夢であることの悲しみ」)
「過古を走り去った自動車が、やがて現在へと至る道/それを眺めながら、ぼくは冬を待つ/ぼくはかつて寂しかったようにいまも寂しい/こんなにもあふれそうなおもいのなかで、/きみのいない街を始終徘徊してるのさ/これまでの災禍、そして怒り/なにもかもが一切、見えなくなるまでずっと」(「まちがい」)

そんな『不適当詩劇』で圧巻なのは、「あとがき」に「3度の絶頂を迎えた」と記されている通り、詩集の最後に置かれた3編、「食卓をめぐるダンス」「なまえ(overwriting)」「レイモンド・チャンドラーの猫」だろう。わたしは「食卓をめぐるダンス」が最も好きだ。

「警報がつづくテレビ画面のすみっこでぼくは歩き疲れた自身をなぐさめようとした/だれかが鉈を抱えてこちらに来ないものかと、ずっと不安に怯えながら/枝を踏む音がどこからかしているのにだれも気づかないふりで過ぎる/死んだはずの人間と、婚姻を果たす男は夜を信じない/冥府とこの世界を繋ぐ橋をマディソンと名づけながら、/太い血管のような存りようでぼくの眼を奪おうと、/隣人たちが裸を脱いで待機中である」

中田満帆の表現は、何かある一線を超えてしまっている。すべてを破壊して、最後は自分自身までも破壊した後に訪れる、奇妙にさわやかな静寂がそこにはある。それは、商業主義や承認欲求にまみれた言語表現を軽々と超えてしまっているので、おそらく、健全な市民としての文学愛好者(正確には、文学が好きな自分が大好きな自己愛の亡者たち)からは、彼の書いたものは眉を顰められるだろう。美しいものは俗世間に敗れるというのは、太古の昔から決まっている。だが、敗北は勝利のイロニーなのだ。

最後にもう一度繰り返して言う。文学は、詩は、生の、魂の刻印である。中田満帆の『不適当詩劇』は、文字通り中田満帆そのものである。こういう詩が正当に評価されないというのならば、いま流通している詩なんてくそくらえだ。わたしは絶望している。だがそれは何と幸福な絶望だろう。中田満帆の美しい詩魂は、この詩集の存在によって永遠に守られるだろう。わたしの生涯において、最も重要な詩集のひとつとなった。どうか、ひとりでも多くの人が、この詩集を手に取ってくれますように。そう祈らずにはいられない。


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