【断章】「一通」という詩ーー峯澤典子論のためのノート(3)
ずっと、峯澤典子論を書きたい、絶対に書く、と思いつめながら、わたしが書きあぐねているのは、峯澤さんの詩の魅力が、内容や素材ではなく、過剰なまでに繊細なことばの選び方、運び方みたいなものにあるからである。ことばそのものをことばで論じることの難しさ。わたしのことばで、峯澤典子さんの詩の世界を潰してはいけない、と思うと、躊躇いが生じる。
『現代詩手帖』、12月号はいつもその年を代表する詩作品が掲載されるのだけれど、ことしの「2024年代表詩選」には、峯澤さんの「一通」が収録されていた。
冬に
手紙を 投函した
けさも 返事はない
乞い とじる 瞼の
あおい鷺の野を そめる
こゆきの
あてさきは
どこにもいない人の
吐く息の アルファべ
ふゆ、の
くちびるの インクは
しろくとざされた空の
弱い点字
一生 人に貸したままの
一冊のみずうみの底の
見返しへ
いちばんやわらかな
数文字が 落ち
ひと冬の
幕間 となる
この詩が、待ち望んだ詩誌『アンリエット』を開いた瞬間、真っ先にわたしの目に飛び込んで来たときの衝撃を、どのように表現したらいいのだろう。ここには、紛れもなく、「詩」があった。「ことば」が息づいていた。ぽつり、ぽつり、と、人差指だけで、ピアノのキーを叩くような、ことばの配列。しかしそれは決して頼りないものではない。たおやかで揺るぎない世界が広がる。そして、どこかで、他者を拒んでもいる。峯澤さんの詩は、本質的に、いつも、ひとりだ。ことばにも温度があることを、わたしは、峯澤さんの詩から教えられた。
たとえば、峯澤さんの詩に「わたし」が登場したとしたら、それは生身の「わたし」ではなく、純粋に「ことば」として詩のなかに存在している「わたし」である。言わば仮構された「わたし」に近い。それを立証することがどれだけ難しいか。たったそれだけに気づくのに、まるまる一年かかった。ことばは、伝達の手段ではない。それそのもので生きている。つまり、目的なのだ。書き手のひとりよがりな思いを優先させるのか、ことばが持ついのちを優先させるのか。峯澤さんは、まちがいなく後者の詩人だ。
結局、峯澤さんの詩はどれも、わたしに何よりも、混じり気のない「ことば」そのものを感じさせてくれたのであった。そんな詩は、いままで読んだことがなかった。この「一通」という詩は特にそうだ。ここに意味を見出すことなど、最も愚かなことであろう。繰り返し読み、ときには朗読し、わたしが、詩のことばそのものになったとき、詩のことばとわたしとの境界がなくなったとき、はじめて、その世界に、少しだけ触れることができる。
日本語は、漢字、ひらがな、カタカナ、たまにアルファベット、から成る。詩を、日本語、もし母国語ならば母国語、で書いていることを、骨身に沁みて感じているひとは、どのくらいいるのだろう。詩は、ことばなのだ。ひたすら、ことばを追い続け、ことばを問う行為である。峯澤典子さんの詩は、読み手の誠実さが問われる。わたしの、ことばへの向き合い方が、問われるのである。ときに、残酷なまでに。