『5日目』7月18日の日記
正体不明の殺人鬼が「空が青かったから人を殺した」という言葉をいまだに覚えている。子供を何人も殺す狂人が「この世界は神様の愛で満ちているよ」と笑った姿を忘れることはない。
総じて、理解できないというのは恐怖を生むのだと、一般的には思うのだ。ただ、これは人殺しに限ったことではなく、なんでもいい。ハンバーグに醤油をかける人間だとか、ピザにパイナップル乗せる人間だとか、ポン酢を飲み物だと思ってるやつだとか。
ここでの問題点は、「私は共感できない」と思っていても「共感できる」人間もゼロではないと気付きにくいことだと思っている。自分の意思は、自我は、ときに周りを見回さない。瞼を閉じることを選ぶ。自分が間違っていると思いたくないから。
しかし、強さを発揮するのは他人の評価を気にしない人間だ。「空が青かったから殺した」ことを否定したところで、本人は首を傾げるだろう。事実に文句を言われても、もう終わったことだから。「ピザにパイナップルを乗せる」ことを否定したとして、どうでもいいだろう。私の趣味嗜好を誰かに否定されてやめるつもりはないのだから。では、少数の肯定派がいたとしたら? 別に変わらない。他人の肯定も自分の埒外なのだから。分かってくれた、ではなく、君もそう思うんだ、で終わりだ。自己完結。
問題点に戻ろう。「共感出来る、出来ない」というのは物事が先にあり、その評価をする人間の言葉だ。あとからガヤを飛ばすだけのこと。しかし、数の暴力は強い。前述の強さはひと1人としての強さであり、世界の意見の強さではない。殺人鬼なんてその代表だろう。表舞台に挙げられたとき、世界の意見に押しつぶされる声は幾らでも存在する。だとしても、それがどうでもいい人間もいる。
さて。何故わざわざ「一般的に」なんて前置きをしたのか。理由は簡単だ。私は理解出来ないが美しいと思ったからだ。恐怖の前に、魅せられた。理由なんて幾らでも探せる殺人鬼が、空の青さを上げたのだ。子供を殺し解体する殺人鬼が、人間の赤さに神様の愛を見たのだ。私にはわからない感性だ。でも、それは彼らにとって真実なのだ。
少数派は息を潜めている。「共感できない」人間を見て、黙っている。理解なんて求めてない。放っておいて、勝手に糾弾してればいい。
その美しさは私たちだけ分かっていればいい。
なんて、烏滸がましくて、悍ましい。
結局のところ、どうでもいいのだ。評論なんて。勝手にらしく語っていればいい。
とどのつまり、沈黙は金、死体に口なし、だ。
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