『分からない』に胡坐(あぐら)をかかない
僕はこれまで人にモノを教える仕事をしてきたのですが、やるたびに思っていたのは
「何でこの人全然分かってないのに、こんなにふんぞり返ってるんだろう?」
ということでした。
詳しくは書けませんが、お客様に対してサポートを提供する仕事で、日々多くの方々から問い合わせを受けていました。
問い合わせをしてくる大半の方々はその方面に全く詳しくなく、こちらも可能な限りかみ砕いて説明を重ね奮闘していたわけですが、中には「もっと分かるように説明しろ!」とか「こんな分かりにくいもの作るな!」という言葉を投げてくる方も少なくありません。
正直に言わせてもらうと、僕はこういうことを言ってくる方に対してとても違和感を覚えていました。
(分からないというのは仕方ない。でもそれなら分かるようにもっと努力する必要があるし、教えを請うのであれば客であるとかそういうのは関係なく、人として教わる態度というものがあるのでは?)
自分が理解できないことがあると、不安になったりイライラする気持ちになることはあるでしょう。でもそれを解消するためには他力本願になるのではなく、自らも前へ進もうとする姿勢が必要です。
『自分には分からないから何とかしろ』というのは、いわゆる思考停止をして見ず知らずの他人に責任を丸投げしているのと変わりません。
不謹慎ながら、こういう人が騙されるんだろうなと密かに思っていました。
勘違いしてほしくないのは、分からないことがあるのは決して恥ずかしいことではないですし、それ自体が悪いことではありません。
世の中には複雑な仕組みのものも多く、説明書も「ある程度理解できていることが前提」で書かれているようなものもあるので、読んでも分からないとしても不思議ではないというのが僕の個人的な考えです。
でも、大事なのはそこから自分が理解できるよう、少しでも詳しくなれるように努力を重ねることであって、『分からないことを他人のせいにする』というのは間違っています。
まず自分が分からないのは自分のせいであるということを認め、それならばどうしていくかをしっかり考える。
そうすることが、人に教えを請うのにあたって最低限の礼儀であり、自分のためになるのではないかと僕は思います。
そして、もし努力を重ねることを拒否したりどれだけ努力をしても分からないのであれば、酷な言い方ですがその人はそれを使うことを諦めた方がいいのです。
自分がよく分かっていないままのものを使用することほど、怖いものはありません。
例えばボタン1つ操作を間違えただけで100万円が自分の口座から全く見ず知らずの他人の口座に移ってしまうような装置があったら、絶対に触りませんよね?
これは極端ですが、自分の手に負えないものには近づかないのが生きていく上で大切なポイントではないでしょうか。
そういったリスクを考えず、自分は大丈夫だというだと謎の過信をして痛い目に遭った人を、僕はたくさん見てきました。
そうならないためにも、分からないということに開き直って胡坐をかくのではなく、分からないからどうするかを考えられるようにすることが、人生には必要だと思うのです。