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成田悠輔氏「なぜ人は戦争には無関心なのに、有名人の不倫は叩きたくなってしまうのか」

ヤフコメざっとみたところ、誰もがいっていることを要約すると「遠いことの話には無関心で近いことの話には関心があるから」ということ

まあ正直そんなことわかりきったことで。

大事なことはその先でしょう。
なぜ遠いことに無関心で近いことに関心を持つのか?

哲学的観点から考察してみたい。

日本人が一般的に「考える」と言う場合、それは「悟性」に基づくものが多い。
悟性とは、感覚や感情のようなものであり、実際には多くの人が「考えている」と思っているものの、その実、反射的に反応しているだけのことが多い。
これに対して「理性」は、その相対するものである。

日本の教育のように、あらかじめ「正しい答え」が準備されており、その答えに到達することを目的とした訓練が繰り返されていると、
その結果、悟性は強まる傾向にある。

悟性が強いと、非常に単調で画一的な結果を導きやすい。
なぜなら、前提として「正しいもの」が既に設定されているため、2者択一になるからである。
そして、「はい」と「いいえ」のグラデーションは省略されがちとなり、
さらに、自然とそのプロセスも省略されていく。

この傾向が日常生活に適用されると、次のような現象が生じる。

人々は欲望に従順になり、短期的な満足を追求するようになる。

たとえば、空腹を感じたらすぐに食べたくなり、異性とすぐに関係を持ちたがり、貯金したいと思いつつも欲しいものを衝動的に買ってしまう。
また、他人から非難されると反射的に応戦するような行動が見られる。

ここで重要なのは、悟性が強いと、短期的な視点で物事を判断しがちになるという点だ。


近くにある問題には反射的に対応する一方で、遠くにある問題には無関心になる。
すなわち、戦争には無関心であるのに、有名人の不倫には過剰に反応する、という現象を生み出すことになる。

従って、タイトルの件については、
「悟性によってもたらされる自然現象である」
という結論が導き出せる。

おそらく、この考察において、タイトルの「なぜ人は~」における「人」とは、日本人が多くの割合を占めている意図が含まれていることであろう。

この内容は、補足や具体例を省略しているため、少しわかりにくい部分もあるかもしれない。そして、発展した見解も省いてある。
しかし、述べたメカニズム自体は大きく外していないはずである。

最後に、悟性が良いか悪いかで言うと、それは一概には言えない。
ある状況では悟性が必要であり、他の状況では不必要である。
むしろ、理性の発展には悟性が不可欠であり、捨てるべきものではないという結論に至る。
あくまでも、成田氏(もしくはマスコミかは不明だが)のコメントに対するコメントの、さらにそのコメントとして述べたものである。


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