私はその日、魂のレヴェルが上がった。これでまた1つ救済へ近づくことができた。(訳:誕生日を迎えました。
その日、魂のレヴェルが上がった。
死へ近づいた。
レヴェルが上がった。
死を忌避すべきものだと捉えるのは、生者の奢りだ。
生者は死を悲観する。死が無ければ、と。
しかしそれは、生者の奢りだ。
どんなに悲惨な死であっても、
どんなに苦痛な死であっても、
死者は涙を流さない。
死者は死を悲観しない。
死者は死を歓迎する。
それは肉体が牢獄だから。
肉体が、魂の牢獄だから、である。
死とは、
魂が牢獄から自由になることを指す。
それが、死。
魂にとって死は、牢獄からの解放であり、自由の獲得。
死は救済である。
そしてその日、
魂のレヴェルが上がった。
より強い「自由への力」を手にすることができた。
肉体に拘束された魂が、
その解放の日に向け、
着実に力をつけていく。
死は救済である。
天国の扉、ヘブンズドアをノックする日は近い。
私はその日、
魂のレヴェルが上がった。
私はその日、
自由への力を身につけた。
私はその日、
私はその日、
私は、その日…
9月5日が誕生でした。
みなさんからたくさんお祝いのメッセージを頂けて嬉しいです。
また1つ歳をとってしまいまして、なんだかもう、自分の歳を言うことに引け目を感じるようになり寂しいです。
お兄さんとオジさんとの中間の年齢で、実年齢と精神年齢が噛み合わず、精神的に不安定な毎日を送っています。私はこれを「第二の思春期」と呼んでいるのですが、この年齢くらいになるとみんな思うものなのでしょうかね。
みんなから「若者」と呼ばれていた時は
「年齢を理由に諦めたり、自分に負い目を感じたり、自信を無くしたりするようなことはしたくない。
年齢なんて言い訳だ。
人は何歳になろうとその気になればどんなことだってできるし、事実、年齢を気にせずに行動している人の方がいつまでも若々しくいられる。
だから俺は、年齢がどうのとかそんなくだらないことを考えずに生きていくぞ!!」
と、年齢を言い訳に使う人たちを軽蔑してました。
だけど、そんな自分が、自分の年齢に溜息を漏らしたり、気がつくと「もういい歳なのに…」と考えるようになるだなんて。本当にくだらないことだとは思っているのだけれど、泉のように渾々と年齢コンプレックスが沸き起こってしまいます。昔の自分が軽蔑していた人間になりつつあります。
とはいえ、年齢がどうのとか、そんなことを考えたところで若返ったりしないわけで。
だからもう、考えるのは止めます。
どんなに歳をとったって、今この時の自分が一番若い。
歳をとってしまいましたが、変わらずに自分の好きなことを好きなだけやる人になろうと思います。
それに、自分の好きなことをやっている人の方が若く見られますからね。気持ちだよ、気持ち。
きっと、5年後の自分が今の年齢の人を見たら「若いなぁ、まだその年齢ならなんだってできるじゃん」とか思うのでしょうしね。
そしてこれからは自分の年齢を聞かれたら「14歳+○ヶ月」とかいってぼやかしてやろうと思います。
さっそくですが、今年の誕生日で私は「14歳+240ヶ月」を迎えました。
なんと、中二になってから20年目になったわけです。
凄いね、20年目の14歳中二。
そこで今年のひとり生誕祭のタイトルは
「ひとり生誕祭、祝、20年目の14歳❗❗ 〜オレも昔はイタかったヨ 今もか❗❗ なんちゃッテ😜」
にしました。
えぇ、そうです。元ネタはオジさん構文からお借りしました。
ひとり生誕祭で何をしたか?
それは、次の記事でお話しますね。
では、今日はこの辺で。
P.S. 今日は文章を敬体にしましたが、次回からはまた常体に戻します。