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日曜の昼、蕎麦を食べる

麺類の中だと蕎麦が最強だと思っている。いや、もちろん夏の暑すぎて何もやる気の起きない日に食べるそうめんは美味しいし(薬味としてみょうががついていたらなお美味しいのだが、そうめんを食べるのはやる気がないときなので、そんなものはつけられない)、どうしようもなくラーメンを食べたい時だってある(飲み会の後のラーメンは3口目くらいまでとっても美味しい、それ以降はどのくらい酔っ払っているかに強く依存する)。それでも、やっぱり蕎麦が最強だと思う。

蕎麦は、日曜の昼、何の予定もない日に食べると特に最強である。遅めに起きて、ダラダラと部屋の掃除をして、腹減ったなあ、なんか食べにでも行くかぁ、と思ってサンダルで外に出る。近所の公園で遊ぶ家族連れを横目に、いかにも東京の一人暮らしの若者みたいな格好でぶらぶら歩く。天気もいいし、今日は蕎麦を食べたいな、と思う。本当は家を出る時から蕎麦を食べたいなと思っているが、天気のいい時にぶらぶらと歩きながら、蕎麦を食べたいな、と内心で思う、ということそのものが楽しいので、そういうことを思う。そうやって歩いてたどり着いた、近所の何ということもない街の蕎麦屋に、ガラガラと音を立てながら戸を引き、のれんをくぐって入る。

席について、メニューを開く。お冷をお店の人が持ってきてくれる。天ぷら蕎麦美味しそう、鴨南蛮もたまには贅沢でいいなあ、山菜蕎麦とかも結構あり、と、一通り悩んで、ざる蕎麦大盛りを注文する。お腹が空いてたら、天丼セットにする。麺類だと蕎麦が最強だけど、揚げ物だと天丼にのっている舞茸の天ぷらが最強である。最強のコンビネーションを日曜にいただければ、その週末は光り輝く。でも、この店には天丼セットはないので(カツ丼はあるんだけどね、そしてカツ丼もかなり好きな食べ物なんだけど、でもカツ丼は単体で食べたいんだよね、というわけで)、ざる蕎麦大盛りを注文する。

蕎麦が来るまで、黙ってお冷を飲みながら、ちょっと体を捻って目線を上げないと見えない位置にあるテレビをみる。日曜の昼なんて、当然大した番組はやっていない。日曜の昼のテレビ番組は、日曜の昼然とした番組がちゃんと流れている。そうやって日曜の昼に日曜の昼の番組を流せるうちは日本のテレビ局も捨てたもんではないなあ、などと適当なことを考える。体を捻って目線を上げるのに疲れたら、何とはなしに右に座る家族連れを眺める。剣道の習い事の帰りらしい、道着姿の少年と、同じく道着姿の父親、そして私服の母親の三人組が、黙って蕎麦を食べている。父親は剣道の師範なのだろうか、それとも父親と子供で揃って剣道を習いに行っているのだろうか、もし師範だとしたら稽古の時子供は気まずいだろうなあ、それともそういうものとして育ってしまえば気にならなくなるのだろうか、剣道の稽古中母親はどこにいたのだろう、稽古の様子を見ていたのか、その間に買い物でも済ませていたのか、それともカフェで同じく剣道の稽古待ちのママ友とお茶でもしたりしていたのか、

なんてことを思っていると、ざる蕎麦大盛りが到着する。ざる蕎麦ともり蕎麦の何が違うのか、って毎回調べて毎回忘れるよなあ、などと思ったりはしない。そんなことを思うのはあくまで人と蕎麦を食べている時であって、一人で蕎麦を食べる時は単に蕎麦を食べたいというだけである。蕎麦をめんつゆに浸し、勢いよくすすり上げる。あとはただこれを繰り返す。一通り食べ終えて、残った蕎麦の切れ端を箸で頑張って取って、最後まで食べる。この切れ端を取って食べるのははしたないのかもしれない、と思いつつも、どうせ一人なのだから、関係ないじゃないか、と開き直る、という儀式を毎回して、結局綺麗に最後まで食べる。

そうしたら蕎麦湯が出てくるので、蕎麦湯でつゆを割っていただく。蕎麦そのものも最強だが、この蕎麦湯というものがとにかく最強である。もはやこの蕎麦湯を飲むために蕎麦を食べているようなものだ。というこの言い回しは近頃のSNSで見られすぎている陳腐な言い回しであるし、そもそもこの言い回しがされる時、大抵そんなことはない。蕎麦も美味しいし、蕎麦湯も美味しい、ただそれだけである。と、そんなSNSっぽい言い回しについての雑な考察は置いておいて、お会計に行く。もう大人になったので、蕎麦湯は最後までは飲み干さない。

お会計をして、また引き戸をガラガラと引いて外に出る。公園で本でも読みたい気分の日曜の午後だなと思う。当然これも、そういうことを内心で思うのが楽しいから、思っているという類のことである。

でも、やっぱ公園で本でも読みたいな、日曜だし、天気良いし。

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