毎日書ける人すごい
人は何のためにものを書くのでしょうか。
誰にも見せる気のない日記ですら、万が一誰かに見られた時のことを考えて、中途半端に繕われたものを書き上げてしまう。
それは見られた時に恥をかかないためという、条件がそろった時に初めて発動する守備表示のようなもので、案外使う機会もなくデュエルが終わることもあるのだろうと思う。
未来の、まだ存在していない自分のための守備表示は、今の私をないがしろにしていないか。
気のすむままに吐き出せなかった今の自分は、では誰がどのようにして守るのか。
そもそも十分に吐き出せないのであれば、私は何のために日記を書いているのか。
手段がいつの間にか目的に変化して、本来の意味を失ったまま空っぽのミッションを遂行し続けるなんて、時間の無駄だ。
この無意味なしがらみから、プラスティック製の鎖から早く自分を解放しなければ。
では日記は今の自分の為に書こう。
では人に見せる用のものは、何の為に書くのだろう。
自己顕示欲か。
人に情報を与えたいのか。
人を笑顔にしたいのか。
しかし私の場合これもやっぱり、自分のためだ。
誰かを笑顔にしたいなんて高尚な思いでは絶対にないし、私の書くものなど有益の有の字の一角目にも満たない。
実のところ私は、何となく思いついたことを書いて、自分が面白いと思う形にできた時の達成感に毒されている。
普段考えていることもしかり、パソコンの前に座って突然思いついたこともしかり、いろいろな理屈をこねくり回して自分の好きな形を作ってそれぞれをくっつけて遊んでいる。
粘土遊びみたいだね。
しかしそうしてできたものはぶっちゃけると大体、
「だからなに」
といい伏せられるようなもので、少しの気の迷いで意味を追求してしまうと、書きかけのまま、窯に入れて焼いて完成させることなく、誰に見せるでもなくやめてしまう。
だから、毎日書いている人はすごい。
私がこうして投稿ができているとすれば、(まだ書いている段階なので結果はわからないが)
それは一時の気の迷いで、ハイテンションで、「だからなに」の入る隙間もないくらいの視野の狭窄で成立しているに過ぎない。
話は変わるがこの間食べた白菜と豚肉のミルフィーユ鍋が想像を絶するほどおいしかった。
定かではないがあれはたぶん合法ではないと思う。
出汁をかけて熱して、味ぽんをつけて食べるだけであんなにおいしくなるなんて理屈では到底考え付かない。
おそらくどこかでひそかにチートを使ってしまっていた。
そういえば出汁のことを「だしじる」と読んでた時期があったな。
漢字からして「だす」と「しる」だし、何となく耳にしていた「だし」って言葉も頭にあったものだからてっきりみんな略していたのだと思っていたのだよな。
それじゃただの動詞で意味をなしてないじゃんデュフフフとすら言ってた気がするな。
無知は恥ずかしいな。
それに気づかないでいたらもっと恥ずかしいな。
無知の無知か。
ムチムチは私の理想とするところではないから、やっぱり知の探究という筋トレは欠かせないな。
今日はちょっと異質な形をした粘土を無理やりくっつけてしまったけど、類を見ないキメラを想像したと考えればそれでいいか。
ニーナとアレキサンダーがどこに行ったのか勘のいいガキに聞かれる前に今日はお暇するとしようかな。
今日も自分の為にnoteを書きました。