人生の流れが加速する人としない人の違いへの考察

本を読んでいたら、世の中には円環する時間直進する時間の2つがあるという話が出てきた。


円環する時間とは、文字通り巡るような形を示す時間だ。日の昇り沈み、四季など、自然界の多くの時間は円環する性質を持つ。


それに対して直進する時間というのは、後戻りしない時間だ。人間が幼児から成人、老成して死ぬようなニュアンスをみれば、わかりやすいだろう。


その本では「もともと自然界には円環する時間しかなく、直進する時間軸を生きる人間は不自然である」という話を持ち出し、農村で生活を営むような円環の時間軸に人間は還るべきなのではないか?というような話が続いていた。


僕がこの時間の捉え方の話を興味深く思ったのは、それが時間の流れ方の感じ方に強い影響を与えるんじゃないかと思ったからだ。


例えば、忙しい生活をくぐり抜けた先でバカンス先で暇を潰していると、それこそビックリする位に時の流れがゆったりと感じられて、都会のラットレースのような生き方に疑問を持つ、というのはよくありそうな話だろう。


そういう生活に憧れて、実際にそういう生活に軸足を置いてみると、最初の頃は実に豊かな時間間隔を味わう事ができる。


「ああ、自分は平穏を手に入れたのだ。これからのんびり暮らそう…」


実によくありそうな話である。


しかし、こういった牧歌的な生活は、不慣れな頃は特別であるが故に、時間の流れがゆっくりと感じられるものの、それが日常となり繰り返しの円環の時間のカテゴリーに入ってしまうと、残念ながら時の流れが加速する。


たまにニートなんかをやっている人の話を聞くと、ニートの年数感覚は一瞬らしい。


気がついたら数年部屋に閉じこもって過ぎ去っていただなんて話を聞くと、どうもゆったりとした時間軸に身を置いたからといって、豊かな時の流れを感じられるというわけではないようだ。


忙しないラットレースのような生活から、悠久の時の流れに身を置くような生活に移り変わったのに、いったいなぜそんな事になってしまうのだろうか?それは…

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