不安や恐れと、シャドーワーク
今、新型コロナウイルス蔓延によって、メディアでは毎日24時間体制で、
最新の感染者数や死者数を報道しつづけ、
それに加えて有名人の感染者や死者などもクローズアップしている。
そんな状況下で、このウイルスに対する不安や恐れを抱いている人も多いだろう。
そして、もっと入り込んだ事情に興味がある人なら、
WHOと中国共産党との裏での癒着や、
有効であると期待される、様々な薬(ヒドロキシクロロキン"HCQ"、アジスロマイシン、ファビピラビル、イベルメクチン、二酸化塩素)などの研究、増産、実用化、などを支援しするよりも、ワクチンの開発と世界中での普及、もしくはそれを義務化するための動きなど、
こういった問題がうっすらと表面化してきていて、
こういった世の中の裏の闇への恐怖の方が大きい人も多いだろう。
そもそものウイルスの出所や、このウイルスの実際の危険性の実態や、
世界中で経済をストップさせてしまう事の裏にある本当の意図、WHOやUNの素性、はたまた5Gと関連性や、新世界政府の完全なる管理社会においての実質的な全人口の奴隷化につながる系譜。。。
などなど、陰謀論は話し出したらきりがないところがまた、怖さを増殖させる理由かもしれない。
こういった不安や恐れの感情と、どう向き合っていけばよいのか?
そもそも、私たちがコロナウイルス、もしくは「裏の世界の闇」に感じる不安や恐れは、本当にそれらに対して感じているのだろうか?
もちろんそれらの存在によって起こりうる、痛みや苦しみに対する不安や恐れもあるだろう。
しかし、それはほとんどの人にとって、まだ実際には起きていない仮定や架空の話にすぎない。
深いところからの、時としては、細胞レベルから感じるほどの恐れは、
自分個人はもちろん、同じ部族や人類といった、大きなきくくりの集団として経験してきた過去の経験から来ているものも大きな要因となっている例をよくみる。
つまり、私たちの感じる不安や恐怖は、目の前の出来事への反応ではなく、私たちのどこか深い部分に記憶している過去からの経験の記憶、という状況が大きな割合を占めている。
わたし自身や、クライアントさんの例であげれば、アトランティス崩壊の時代の記憶や、大きな災害を経験した過去生なども大きく感じている。
ここに気付くこと、そして、様々な過去生での経験からのネガティブな影響を断ち切ること。
これらの記憶はもう過去の終わった事だとしっかり認識し、そこから自由になって前進してゆくこと。
それによって、かなりの恐れから解放される。
もう一つ大事だと感じることは、
闇をみてゆく事自体を恐れないということ。
私は、一人一人が個人レベルで癒えてゆく事が、この世界全体を癒していく事につながると信じて活動している。
一人一人が個々に自分の内側と向き合い、自分の中にある闇をみてゆくこと。そして、逆説的に聞こえるかもしれないが、その闇を受け入れる事で、その闇を解放してゆくこと。
否定したり、無かったことにしたり、抵抗したりする事では、ますます闇にパワーを与えてしまう。
ここでいう個人の闇とは、罪悪感をもっていることや、恥ずかしいと思っている自分の過去、といったことかもしれないし、
狂気や傲慢さ、被害者意識、妬み、恨み、渇望などといった性質かもしれない。
恐れることなく、そういった闇に向きあってゆくシャドーワークをしてゆく事で、
それらの闇は、私たちへのパワーを失い、そして、私たちはその闇から自由になる。
そういった経験をしていくことで、闇と向かい合ってゆく事が恐ろしい事ではなく、本来の自分を思い出していくための、学びや、プロセスに過ぎないと思えてくる。
闇から自分自身へと、パワーを取り戻すプロセスなのだ。
簡単に言えば、おどろおどろしく感じた「闇」というものが、
「なーんだ。。。」というものであった事に気づいてゆくプロセスだ。
そして、この自身の闇と向き合い、パワーを取り戻して自由になるというワークこそ、
大きなスケールでの、社会的な「裏の世界の闇」から、私たち人類がパワーを取り戻して自由になることにつながると信じている。
私は、911で崩れてゆくワールドトレードセンターのビルを、肉眼で目撃する経験をしてから、
腑に落ちない、というか、ハラで何かがおかしいという感覚をぬぐいきれなくて、
社会の本当の仕組みや、いわゆる陰謀論といわれるものをいろいろと知っていくことになった。
その仮定で、気分がかなり落ちこむような経験もしたし、いわゆる闇の勢力といわれるものに対して、圧倒的に無力であることに絶望感すら感じたこともあった。
そんな、嘘か本当か分からない話で落ち込んでしまうくらいなら、そういう話は一切みない方がいいんじゃないか?と思ったこともあった。(もちろん、これは本当の話だな、とハラで納得できる話が多くあるからこそ、落ち込んでしまうのだけど。)
でも、今はまったくそんな風には思っていない。
陰謀論や、一般的には話されることが少ない裏話を見聞きする事で、
そんな事はあり得ないと、少しの考察もしてみることもなく否定したり、
そんな酷いことが真実なら、そんな世の中には生きていたくないと、いつもの日常を続けるために無かったことにしたり、
もしくは、そんな悪意のある勢力には対抗しようもない、と落ち込んでみたり。
そういったことは全くしなくていいのだと、今は感じている。
それが嘘でも本当でも、恐れに囚われることなく、「この話はなにか納得いくし一理あるな」とか、
「ほんとに酷い悪意に満ちた計画だとしても、今や今日の自分は問題なく生きているし、何か自分にできることがあるかもしれないな」とか、
そんな風に、ニュートラルに捉えて頭を使ってみることもできるからだ。
そこに、恐れを感じながら気まずくスルーすることも、正義感をメラメラと燃やすことも、必要ない。
インターネットやメディアでの発言の自由は確実になくなってきているこの時世でも、頭を使って自分なりの考察や意見を持つことは、まだ今のところまだ許されているのだから。
Knowledge is power.
(知識はパワーである)
私はそう考えているし、そもそも、そういった話を見解を広げるための知識として聞いてみる耳を持つこと、
「闇をみてゆく事自体を恐れない」、ということがこの世界を変えてゆくことに貢献するのでは、と考えている。
(そもそも、陰謀論と日本語で訳される"Conspiracy Theory"いう言葉自体、
JFKの暗殺事件を追及する人々の考察を、ばかげた話だと払拭するためにCIAが使い出した言葉だ。
まともに取り上げるものではない風潮を作ってしまうことで、不都合な真実を明らかにさせない目的であったのは明らかである。)
まず、受け入れてみないと、そこから自由にはなれない。
そして、自分の中の不安や恐れに向き合った人ほど、そういった社会の闇にも恐れずに向き合えるのではないかと思う。
それは怖がるようなことではなくて、集団としての私達にパワーを取り戻すためのプロセスだと知ることができるからだ。