【エッセー】中田英寿の見上げた神宮外苑の空、石原慎太郎の触れなかった樹齢100年の木々。
神宮外苑の1000本の木々が伐採されそうだ。明治神宮の造成時の植樹なので、木々は樹齢100年ということになる。果たして、伐る必要があるのか?
小学校時代、神宮外苑は遊び場の一つだった。放課後、K君とぼくは自転車を駆って外苑に向かったものだった。周回道路で、ほかの新宿区立の小学校の仲間とのレースを終わらせた後、絵画館前の広場で、ナイターに備えるヤクルト・スワローズの選手たちの練習を眺めるのが日常だった。
当時はリーグ優勝もして果たしてない弱小チームのヤクルトだったが、それでも、若松勉、大杉勝男、ロジャー、マニエル、松岡弘、安田猛などの選手たちの姿を間近で見られて、ぼくたちは幸福だった。小さな柵越しに話しかけたり、サインをもらったりできたのは、他の球団と比べてガードの甘い(というか無い)外苑広場の練習場だったからにほかならない(1978年、小学校5年生の時にヤクルト初優勝。前年からファンクラブに入会していた)
高校生くらいになると、神宮外苑はお気に入りのデートスポットになった。秋の部活のない日、ガールフレンドと銀杏並木を目指して広尾から外苑前まで歩く。今は無き「皇家飯店」を曲がると、輝く金色の世界が広がった。「セラン」はオープンしていただろうか、テラスで寛ぐ大人たちを横目に絵画館前まで歩き、日が暮れるまで語った。キラー通り沿いの食堂(のちによく通った「to the hurbs」はまだ無かった)で食事を済ませると、神宮外苑ゴルフ練習場で数十発打って、一緒に渋谷まで歩いて帰路についた。
2012年、NOBORDER本社を青山に置いて、しばらく経つとイタリアン「セラン」が閉店した。最後にイタリアン「セラン」に行ったのは永六輔さんへのインタビューだった。二階の永さんの「指定席」で3時間ほど話した。永さんは銀杏並木を愛していた。「外苑に寄ったら、いつでも声をかけてください。お茶でも飲みましょう」。翌日届いた葉書にはお礼のことばと、達筆な字でそう添えらえていた。
「セラン」から「キハチ」に店名が変わってからも、原稿書きや取材打ち合わせで、ぼくは神宮外苑で長い時間を過ごした。「キハチ・チャイナ」になってから最初に訪れたのは、のちに報道キャスターとなる小川彩佳さんとだった。まだアナウンサーになったばかりの彼女が、すでにメディアについて深く理解し、米国ジャーナリズムについても的確な質問を繰り出してきたのが印象に残っている。だから、のちに彼女が報道キャスターに就任したことに驚きはなかった。しかし、その一方で、彼女の意識の高さゆえに、リテラシーの低い日本のテレビ業界の中では、相当の苦労が待っているだろうと心配にもなった。「セラン」でよくジャーナリズムについて語りあったTBSのK記者ともそんな話をしたのを覚えている。
2012年末、石畑慎太郎都知事が退任し、安倍晋三さんが首相に返り咲くと、外苑再開発の声が日に日に大きくなっていった。とくに、都営霞ヶ丘アパートの取り壊しが決まると、都庁内でも再開発は必至であるかのような空気が広がった。とはいえ、外苑は都の風致地区に指定されていることから、あの青く広い空は守られるだろうと私自身は高を括っていた(以下続く)
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