『野球どアホウ未亡人』誕生②「未亡人」について※ネタバレあり
不定期連載シリーズ。第1回はこちら。
まずは、直近の上映情報から。
上映情報
【2023年】
9/22〜?
愛知・刈谷日劇
11/10〜11/22
長野・千石劇場
12/8・12/16
MOOSIC LAB 2024(新宿K‘s cinema)
12/9・12/10・12/31
池袋・新文芸坐
【2024年】
1/1〜1/5
神戸・元町映画館
1/13〜1/26
池袋シネマ・ロサ
最新情報は映画公式X(旧Twitter)をご覧下さいませ。
なぜ「未亡人」なのか
「主人公の女性が草野球チームの監督との猛特訓で快感に目覚める」
という一行のアイデアを思いついたとして、例えばその女性が「女子高生」とか「女子大生」とか、「OL」や「主婦」じゃダメなのか、というと、ダメなのである。
なぜダメなのかというと、余計な人間を大勢出さなければいけないからである。女子高生や女子大生だったら、彼女が通う学校の友人や教師、それから家族、OLだったら職場や上司、同僚その他を用意しなければならない。
映画をご覧になった方ならお分かりだろうが、草野球チームひとつ結成できない貧乏インディーズ映画である。試合なんてもっての外という状況で、余計な人間も環境も準備できないのだ。
大体、主人公が住んでいる家を用意するのだって精一杯だ。なるべくなら家の中で済むような人間が主人公だとありがたい。
そうなると「主婦」だ、という事になるわけだが、それでもまだダメだ。「夫」がいるのである。
映画の展開としては、早い段階で主人公と草野球チームの監督との特訓場面に持ち込みたい。そこにいつまでも夫がいるのは邪魔なのだ。例えば、主人公の主婦が、草野球の監督と不倫した、としよう。不倫で野球する不自然さはさておき、夫が妻の不貞を疑う、みたいな展開は、映画の流れを停滞させるし、何よりそんな事に時間を費やす暇は無い。これは色んな場で語った事だが、私が作りたいのは主人公が特訓する「特訓映画」であって、昼メロを撮りたいのではない。
夫には早めにご退場願いたい。亭主元気で留守がいい。いや、元気じゃなくてもいい。いっそ……死んで貰おう。
こうして、主人公は「未亡人」となった。
では「未亡人」とは
主人公は未亡人となった。
未亡人といえば、成人映画の定番ネタでもある。「未亡人下宿」シリーズとか。この映画にもそういった成人映画のパロディとしての側面がある。
ただ、未亡人をギャグの素材としてだけ扱うわけにはいかなかった。いかなかった、というのは、別に誰かから命令されたわけではなく、私と脚本の堀雄斗との間で半ば暗黙の了解だったわけだが、簡単にいえば我々の「倫理観」がそれを許さなかったのである。
未亡人とは、社会的な立場の事である。夫に先立たれた女性が「未亡人」と呼ばれる立場に立つわけだが、何も立ちたくて立ったわけではない。未亡人になりたくてなった人は、滅多にいないはずだ。
女性は、何かと立場というものに縛られる。誰それさんの娘さん、とか、誰それの妻、とか、誰それちゃんのお母さん、とかいったことだ。未亡人もまた、その延長線上にある。
「あの人は未亡人だから」という他人の先入観や価値観に女性は縛られることになる。未亡人だからこうするだろう、とか、未亡人はこうあるべき、みたいなことを半ば強制される。そうやって縛られている人間をただ「ギャグ」の素材としてのみ扱うことには抵抗がある。これが私と堀の倫理観である。
未亡人となってしまった主人公はどう生きるべきか、というのを考えなければいけなくなった。この映画が楽天的なバカ映画ではないワケはそこに起因すると思う。
そして「未亡人」は
主人公は映画の終盤、野球がめちゃくちゃ強くなる。強くないと、お話の決着がつかないからだ。強くなってくれないと困る。
では、なぜ強くなったのか。この理由付けもひと苦労であった。
体がムキムキになるのがいちばん良い。大谷翔平のような体になってもらえれば最も説得力がある。しかし短い撮影期間の間に筋肉モリモリになってもらうのは不可能だ。「明日から大谷翔平になれ」というのは、ボールになれと言っているのと同じくらい理不尽な話である。
では最初からムキムキな体の女優をキャスティングしたらいいのかというと、特訓する必要が無くなるわけで、お話が破綻してしまうのである。
というわけで、見た目の変化には無理があるので、もっと内的な変化を理由としなければならない。
だが、例えば「主人公が男性に近づいたから」としてしまうと、男性上位のようになってしまうから、ここはひとつ「主人公が女性だったから」としよう。女性には男性には無い才能があり、それこそが主人公が野球に強くなった理由なのだ。
本当にそうだろうか。何か女性というものを神聖視しすぎではないだろうか。女性上位がすぎるというのも、これはこれで偏ったモノの見方である気がする。
そうなると、もう男性とか女性とか、性別にこだわるとロクな結論が出ないような気がしてきた。そういう性別を超越した存在に主人公はなるべきではないか、と堀は主張した。男でも女でもない……神だ。
こうして、主人公は「神」になった。
神となった「未亡人」は
神になる下準備として、主人公には眼帯を付けさせた。これは脚本にはなく、コンテを作る段階で発想した。
片目を潰すことによって右脳と左脳のうちどちらかの機能を停止させ、それを補うようにしてもう片方の脳が異常な発達を遂げる。つまり発狂するわけだが、その発狂した狂人の発する言葉を、昔の人は「神の御言葉」として拝受した。そんなような話を、たしか諸星大二郎が『鎮守の森』という漫画で描いていたのを思い出したのだ。
そして神になるわけだが、神になった事を分からせる為に、主人公に何を言わせようか悩んだ挙句、「あんたと私、どちらがより野球かといえば、私の方が野球だ」というセリフを思いついた。誰もそんな事聞いてないのに、いきなりそんな事を言い出して勝手に決めつけるというギャグだが、この決めつけの断定口調は、梶原一騎原作の劇画のパロディである。
それを受けて堀は「そんなに野球が好きになったのか」と続けた。これは、『ウルトラマン』(1966〜1967)の最終回「さらばウルトラマン」のウルトラマンとゾフィーの会話のパロディである。これもまた、神々の会話といえる。「私は野球だ」はダメ押しである。
さて、主人公は未亡人となり、そして神となった。
「神」と聞いて真っ先に思い浮かぶのがキリストだ。
キリストはゴルゴダの丘で処刑されるが、復活する。復活した事によって人々から神と崇められる。
「死」を超越する事もまた、神になる条件なのだろう。人間は死を恐れる。どんな「無敵の人」でも本能的に死を恐れるのではないだろうか。死を恐れない、だから強い。だから「神」なのだ。
草野球チームの監督も、高校時代に野球部の地獄のような猛練習で「死」の恐怖を味わった人間である。彼には希死念慮のようなものがあるのだが、それは死を恐れていないという事ではない。彼にとって「野球」とは常に「死」と隣り合わせであり、理想の野球へ近づく事が即ち死へと繋がるのだが、「野球とは恐ろしいものである」という考えは変わらないわけで、あくまで死を恐れているのである。
先程、この映画は楽天的なバカ映画ではない、と書いたが、それは全編に「死」の雰囲気がまとわりついているからではないだろうか。「死」が持つおどろおどろしい雰囲気や湿り気が全編を覆っているのだ。「未亡人」という題材に真正面から取り組んだ結果である。そもそも夫の「死」によって「未亡人」が生まれるわけで、あらかじめこの2つはセットだったのだ。
「死」といえば、当初の脚本では、主人公は勝負に勝った後、死ぬ事になっていた。快感に打ち震えて悶死するのである。
「しかし、それでは神とはいえないのではないか」と堀が提案した場面は、いまの完成作品にある通りだ。『帰ってきたウルトラマン』(1971〜1972)の最終回「ウルトラ5つの誓い」の、郷秀樹と坂田次郎のやりとりのパロディである。またウルトラマンかよ。
まあ、ウルトラマンである。私も堀も、ウルトラマンが撮りたいのだ。ウルトラマンや怪獣を出すお金が無いから、普通の人間をウルトラマン(あるいは怪獣)に仕立て上げてしまえ。色々と御託を並べてきたが、詰まるところそういう事なのだ。
なぜ『野球どアホウ未亡人』なのか
最後に、この映画のタイトルについて書こうと思うが、正直、タイトルに「未亡人」と冠する事に抵抗が無かったわけではない。考えついたのは私なのだが。
なんせ「未亡人」である。「未亡人」がネガティブなワードである事ぐらいは私だって理解している。堂々と提示できる言葉ではない。出来れば使いたくない言葉だとも思う。当然、女性が拒否反応を示してもおかしくない。若い人だって、私のような物好き以外、見向きもしないだろう。
実際、女性や若い世代の観客数は少ない。少ないのだが、それでも構わないと私は思った。
例えばこの映画が当たり障りのない、凡庸なタイトルだったら、文字通り当たりも障りもしなかっただろう。特定の層を狙おうと思ったらそれ以外の層を切り捨てる事も大事なのかもしれない。右中間へヒットを飛ばそうと思ったら左中間への打球は諦めなければならない。球は一度に右へ左へと飛ぶ事は出来ないのだ。
……まあ、こんな偉そうな事が言えるのも、話題になったからなのだが。
何より、これまで書いてきた通り、映画を観れば、「未亡人」をギャグの素材としてだけ扱っているのではないという事は分かるはずだ。タイトルで誤解を受けても、観ればそれは解けるはずだし、観ない人は、そもそも相手にしていない。
幸い、映画を観た方が感想をSNSへ投稿して下さったり、解説動画など撮って下さったりするので、「そういう映画」であるという誤解は解けつつある。
おかげさまで映画祭での上映もあり、今後女性や若者の観客数も多少は増えるのではないかと期待している。
*さて、この映画が「フェミニズム映画」なのかというと、必ずしもそうではないと私は考えるが、その理由を書き出すと長くなるので、続きは次回の講釈で
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