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良いニュース文章とは

日本でもよくやるけど、自分の考えは実際にどうかは置いておいて、ある賛成・反対の両方がわかりやすく存在する問題に対して、それぞれの立場に振り分けられて討論をする、例えばアメリカの場合にこのトピックでよくやるのは中絶に対して賛成か反対か(自分の周りはみんな実際は反対派でした)これをやると、自分の考え方はとりあえず置いておいて、その考え方がどういう理論や経緯で成り立っているのかを考えられるようになります。

これがうまくできる人は、色々な状況や考え方について、フラットに理解することができるようになるんです。実は自分はnoteではこの部分にチャレンジして文章を書いています。ある種の論理的考え方遊びです。割とドライにこの部分か考えるとこうなるよねっていう老化しないための頭の体操です。

日本で報道機関に求められているのがまさにこれだと思っていて、色のついたニュース記事が多くて、事実をある一定の考えや印象に誘導するように報道したり、一次情報があるのに、ある一定の印象を与えるように印象操作をしたり、変な使命を持ってやってたり、そして読む側もこの辺りを読み分けるリテラシーがなかったりと、報道ってなんだろ?って思ったりしてます。

面白いのが、ほくりくに通うようになって、北國新聞を読んだりするんだけど、新聞の役割をしっかり果たしてくれていること
地元の様々なニュースを印象操作なくフラットに伝えていて、そういえばアメリカって全国紙ないな~と思いながら、良質な記事が多いです。

客観的に発生していることを自分(自社)を殺してフラットに伝える、そこから先、受け手がどう考えるかはその人の範疇 というのがメディアの役割分担のラインなのかなと思います。

よく政治家に対する記者会見で質問者側に色がついた人がいて、意図的にある方向に取れるような回答を引き出すように画策してして聞いているのを見ると、そういうのを望んでる時代はもう過ぎているのにって思って見てます。それに対して質問に答えてない!って糾弾するのはそれは下手すぎるだろうって思いますね。

あと、何が本当に起こったかを客観的に追求するよりも、それがどうなったかばかり、しかも誇張されたり、推測が入ったり、おそらく報道機関の中の人は世間を動かす事ができるのが快感なんだろうなぁーと思いながら見てます。そういうのいらんよねほんとに  当事者じゃないでしょ?って思う。
→陶酔した真実よりも、あっさりとした事実が欲しい今日この頃なんです。


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