これはオタクではない(Ceci n'est pas une Otaku)
2024年までnoteやTwitterでぼそぼそと呟いてきた「Vtuber」関連のことを一か所にまとめてみました。なお、『ユリイカ』Vtuber特集や最近岩波から出た『Vtuber学』などの基礎的な文献、ネット論・アイドル論・オタク論などの諸文化批評・研究はほとんど参照していません。そのためあまりにも浅薄だったり意味不明だったり、自分勝手な感想ばかりですが、「Vtuber=キャラクター」を媒介として自分の現実感覚の基本的なところを言語化しているように思うのでここに残しておきます。
20210610 序文:感触から出発する
声優が吹き込んだ声やVtuberというキャラクターは「ヴァーチャル(仮想的)」であり、「現実」に対する「架空」のものなのか?そこで構築されている関係は「ヴァーチャル(仮想的)」か?
ここで言う「ヴァーチャル」とはどういうことなのか、という問題。
例えば坂部恵や木村敏の人格(自己)論的な見方からすれば、その(所謂ヴァーチャルにおける)キャラクターや関係性は「素顔」「実体」に対して、決して現実性において劣るものではない。
そういう論理を心の支えとしつつもそこに寄り掛かることなく、坂部恵が「おもて」とか「仮面」という言葉で呼ぶものを、別の言い方で新しく、具体的に語ることはできるだろうか。もっと、いま正に心のうちに湧き上がる熱いものに立脚するかたちで、その感触から出発するかたちで、語り出すこと。
実体のないもの、「仮想的」と烙印を押され不当に現実の下の方に配置されるキャラクターや物語などのイマージュに、むしろ現実そのものの核心を見るような、現実を揺さぶり動かす力を感じるような、この心のざわめきと確かな高鳴りを、生きることの拠点とする。
ただし、ここから出発したときに、この熱をそのまま保ったまま語り続けることは難しい。難しいし、それだとどうしてもつまらなくなる。一回冷めて、冷め尽くして、そのときに浮かび上がってくる言葉を信じてみなきゃならない。
20211001 「日常の支柱」みたいな、つながり
会長のフリーチャットが閉鎖されてしまった。どんどん増えていく同接と熱いメッセージで溢れかえるTLを同時に見ながら、涙がちょちょぎれた。卒業してもなおTwitterのトレンド日本1位、世界2位に君臨し、フリーチャットの同時接続10万人超えを成し遂げる影響力は、はっきり言ってめちゃくちゃだ。しかし、その数値化可能な影響力(の全体)を称賛したいのではない。
なんというか、僕は一人の存在が周りを巻き込んで、否応なく時間に残してゆく「つながり」の意味場を見ていたい。Vtuberというひとつのバーチャル空間が、バーチャルとリアルの別を超えるほどの存在感を伴って、色濃い「関係性」を無数に残してゆくのを見ていたい。
桐生ココも知り得ないほどのきめ細やかさで、リスナーひとりひとりの生活のうちにその「関係性」は生まれている。一人のアイドルに出逢えば、一つのコンテンツを知ってしまえば、もうそこに唯一のつながりが生まれる。個人的・私秘的でとんでもなくミニマルなんだけど、その人にとっては代替不可能な「日常の支柱」みたいな、つながり。手では掴めないけど、それが存在していることは強く感じられる。
その「関係性」の数々はこんなふうに、もはやタレント本人やクリエイターの制御可能な力を超えて、奇跡みたいな爆発を起こす。
僕は、一人のタレント・コンテンツを推していくのではなく、オタク文化に積極的に参加するのでもなく、タレント相互、コンテンツ相互、リスナー相互に自然発生する「関係」が起こすいくつもの偶然を、冷静に(、でも時々思わず熱くなりながら)見ていきたい。
20211002
会長のフリーチャットが消える瞬間のことを、また思い出している。
それまで爆速で流れていたスタンプが、10月1日を迎えた瞬間にメンバーシップ提供終了して、ただの四角(□)に変わって流れてゆく光景が、切なくて、すごく綺麗だった。
20211026
アイドルグループというのは、誰かが「卒業」することに象徴されるように小さな学校でもあって、うさ建夏祭りとか運動会はクラスメイトが同じ時間を共有して同時多発的に出来事が湧出する祝祭感が強い。
20220101 一生懸命にやらなくても良い空気感
4期生マリカ。4期が集まったのは7月の会長卒業前のマイクラ以来でしょうか。この4人は、たとえば3期生とか5期生みたいにめちゃくちゃ面白いことがどんどん起こって笑いが絶えない…という感じではない。かなたんが「実家」「こたつのなかに入ってるみたいな」って言ってた(55:25-)けど、無理に笑いをとろうとしない感じというか、一生懸命にやらなくても良い空気感があってあたたかい。どかんと凄いことが起きる訳ではないけど、落ち着いた居心地の良さがある関係性が伝わってくる配信だった。
なめたけさんの切り抜きは毎回良質過ぎるが、これは特に良かった。切り抜きのクリエイティヴィティ。ただ切り抜くだけではなくオリジナルを掛け算して、あたらしい面白さを引き出すのである。
20220201 「空白に遊ぶ」こと
かなたん主催のわちゃわちゃ企画「ホロ新春おせち会」と「軽井沢別荘合宿」。特に後者の合宿垂れ流し放送、ほんとうにすごいと思って聴いてたんだけど、かなたんはツイートで何やら自己反省を表明していて、リスナー一堂「え!?」と驚く。
ひとつ重要なのは、これに「そんなことないよ!」みたいな気休めを言わないことだと思う。このツイートだけでは天音かなたの脳内で具体的にどのような自己反省が行われたかが分からないゆえ、その理解が伴わないまま「大丈夫!」みたいなことを言うのは無責任だし、無意味だ。
何かが起こっていたのは確かだと思う。でも、それが何かがわからないので何も言えない。とはいえ、こんなにおもしろい企画をつくったひとが落ち込んでいるのはリスナーとして不本意なので、次のようなツイートでダラダラと感想を述べた。タグを付けてちゃんと感想を語ったのは今回がはじめて。
かなたんを励まそう的な意識が無かったとは言わないが、それは置いておいて、できる限り本心をそのまま書いた。ひとつの部屋のなかで同時多発的にちがう会話が起こったり、誰かがいきなり風呂に入ってその間ほかの誰かがソロトークで繋いだり、この配信にしかない空気があったと思う。
20220223
Vの配信は物理的にはもちろん、更に例えばホロの場合は「仕事」として、ヴァーチャルにおいて成立しているのだが、そこで起きている感情の交差や偶然的な出来事の数々を「ほんとうに起きていること」として素朴に信じ込む、この「信じる」動きのうちに面白さが増幅している気がする。
20220224 喪うかもしれない誰かと
今日、映画館に入るすこしまえに、潤羽るしあの契約解除を知った。彼女がまた他のホロメンといちゃついたり、ど突き合ったり、笑ったりしているのをもう二度と見ることができないということもまた、ひとつの決定的な喪失だと思っている。彼女の存在がヴァーチャルだったとしても、僕の「推し」ではなかったとしても、離別や死別と何ら変わりない、確実な喪失だと思っている。
(入不二基義が「死による離別と(例えば)転校による離別はなにが違うのか」という素朴な疑問から『現実性の問題』を書き始めていたことを、なんとなく思い出す。)
(中略)
騒動が起きて割とはやい段階で、星街すいせいがこんなツイートをしていた。
「日常を取り戻せるように」ということばが慎重に選ばれている。配信に復帰できるように、元気になってほしい、またホロライブのメンバーとして一緒に、等々の「言えそうな」フレーズは避けられ、それでも「何か言う」「言わなきゃ」という思いに押し出されるようにして、「一日でも早く日常を取り戻せるように」とつぶやかれている。24日の契約解除以前、るしあの件について発言したメンバーは彼女以外居なかったと思う。(もちろん、安易な発言は火に油を注ぎかねないので当然と言えば当然だが。)
もちろん復帰できたらそれがいちばん良いと思っているけど、同時にそれがとてもむずかしいことだとも分かっているのだろう。だから、ホロライブに戻ってこれなくても良いから、配信どころかネットから離れていてもそれで良いから、まずはふつうに、ご飯を食べたり、誰かと話したり、外を歩いたりできるようになりますように。るしあの行動を責めるまえに、問題点を改善しようとする動きをとるまえに、彼女はただ「願って」いる。この先にある喪失を予感しているように見える。
このとき、丸裸で、ただ手渡されているものがある。ひとからひとへ、ひととひとのあいだに、ものすごく純粋に立ち上がっているものがあると思う。なにかを喪っている誰か、喪おうとしている誰か、あるいは、自分が喪うかもしれない誰かと。
(※これは祖父が亡くなったことを自分なりの仕方で受け入れるために書いた『やはり淋しい春の野に』という文章の一部で、全文はこちらから読むことができる。ちなみに、このときはまだ潤羽るしあの問題行動の一端しか知らないまま書いている。)
20220403 ほんとうに身を入れて
メモ:
嘘に身を入れる。フィクションに身を入れる。
エイプリルフール、Vtuber、フィクションの鑑賞。現前/非現前を移りゆきながら浮かび上がる現実感。
もうひとつの現実=時空。『電脳コイル』と坂部恵。「つくる」という行為において起こる転調、現実のズレ込み、そのとき、虚構性と現実性の二項対立が失効し、形成されている「イメージ」(←確かにある。でも、これは一体なに?)。この「イメージ」は視覚的(現実反映的)ではない(ブランショ?)。
(※このメモ書きに関しては、2021年11月の『interlude/祭りのあと』という制作論、とくに注釈22なども参照。)
20220414
周央サンゴというのは「仮面」なので、そもそも「理解」という概念が成立しない。
20220418 ウソがもうひとつの現実
ウソをウソだと見抜けない人は云々でありながら、また、ウソに本当に身を入れる人も云々
ウソをウソだと見抜きつつ、それはそれとして、同時にそのウソに本当に入り込んで遊ぶ、インターネットは常にエイプリルフール
ウソがウソであることと、ウソがもうひとつの現実であることが両立している
20220614 関係性がキャラクター(もうひとつの現実)をつくる
あまりにも凄まじい配信だったので、未だにアーカイブを見返している。なんなら最近はこれを垂れ流しながら布団に入っている。
なぜLINEのやりとりを見せる必要があるのか?なぜLINEのやりとりが面白いのか?
もはや言うまでもないことだが、ヴァーチャルYoutuberとか言いながら、彼/彼女たちのキャラクターはヴァーチャル/リアルの別をとっくに逸脱している。ヴァーチャル/リアルが対立したり層になったりしているというより、その区別は失効し、あたらしい次元の現実が創られている。
キャラクターをヴァーチャルに成立させているだけで良いのであれば、ただ天使や船長のロールプレイをしているだけで良いし、というか、もはや台本を用意してそれを喋るだけでも良い。つまり配信さえ必要ない。コメントを拾わなくて良い。そうすると、あっという間に「アニメ-声優」的になる。
だが、実際のところ、キャラクターには声だけではなく身体も重なっていて、配信においては原則すべてのセリフを指定する台本などはなく、設定さえも最低限のものしか与えられていない。設定とは関係ない身の上話(前に勤めていたところはブラック企業で云々)をすることもできるし、ビジュアルイメージから極端に乖離した行動(配信で握力50kg以上を叩き出す等)をとることもできる。どのように声を発するか、身体を動かすか、大部分がアクターに委ねられている。それだけではなく、ネット配信というスタイルはリスナーにも介入を許しており、コメントやツイート、ファンアートなどでアクターの「物語」に参加することができる。複数主体によってつくられたものが入り交じり関係する場所に、キャラクターは生成する。この場所は単純なヴァーチャルでも、単純なリアルでもないだろう。
などと雑にまとめたが、たぶん、ここまでの議論はとうの昔に終わっていると思う(終わっていて欲しい)。
もちろん、キャラクターは誰か(唯一的な主体)の「つくる」意識のもとで創られていくのでは決して無い。「大部分がアクターに委ねられている」と書いたが、アクターの主体性はときおりほどけてしまう。
配信者として声の扱いに慣れていても、身体の扱いに慣れているひとは少ない。マリン船長は17歳(設定)とは思えない身体の動きから「ババァ」「動きが昭和」などと言われて弄られる。一挙手一投足によって、当初の設定を逸脱しながらキャラクタライズされる。あるいは、発言の内容やゲームの操作などから、アクターが想定していなかった解釈を引き寄せてしまうこともある。
このように、誰がつくったとは言い当てられない、無意識的に「つくられてしまう」部分に関心がある。これが面白いと思う。この「つくられる」部分によってキャラクターの輪郭はどんどん曖昧になり、ヴァーチャルだのリアルだのの雑多な区別に還元しづらいアクチュアルな次元をつくる。
そのなかで特に僕が面白いと思うのは、関係性がキャラクター(もうひとつの現実)をつくる、という視点である(関係性については前にも触れたことがある。「2021/10/1 健康診断で検尿だけ断固拒否するメンタリスト」「2022/2/24 やはり淋しい春の野を」)。アクターとリスナーの関係も重要であり、面白いが、ここではアクターとアクターの関係に注目したい。
LINEを振り返りながら関係を紐解いていく、というのはかなり攻めた企画だと思う。完全に、純粋なヴァーチャルを逸脱している。ロール(役割)やビジネス的な「(意図的に)つくる」要素は透明化されて、「(いつの間にか)つくられた」要素が主題化されているからだ。もちろん、この企画じたいは意図がありアクターがつくっているのだが、企画で取り上げられるLINEのやりとりは無意識的にいつの間にかつくられたものである(と素朴に信じることができる)。それを配信でリスナーと共有することで、ロールモデルを外れたキャラクター・イメージがまたいつの間にかつくられていく。うーん、感動的。
かなたん企画なのだろうか。この前の軽井沢合宿垂れ流し配信もそうだが、割とこの辺自覚的なのがかなたそな気がしている。
ひとのLINEのやりとりが面白いのはそのひとたちの(ふつうは隠れていて見えない)「生(き)の関係性」が垣間見えるからだと思うが、この「生」という部分は「それとなく」「なんでもなく」交わされて発生するのではないかな。そして、一番なんでもないものは隠されていないのにもかかわらず、その「なんでもなさ」故に、なかなか見えてこない。だから、ふとしたときに友達とのLINEを遡ったりするとびっくりするくらい面白いのか。(ってこれ、『断片的なものの社会学』じゃん。)
20220907 なんでもないことのようにふわっと
ポスト・フェストゥム
トレンド入りしたUNKOとか、爆発的に共有される面白さや内輪ネタ的な面白さにはあまり惹かれず、むしろ全く何でも無いやり取りのうちにキャラクターが立ち上がっていくのを薄っすら垣間見る感じがあって感動する
ちょこ先生に「もうレイドしないから」って囁くかなたんとか、トワ様がダイヤ貸してくれたから最終レースでトワ様に全betするそらちゃんとか、トロッコに乗って反復移動するスバルをからかうように避けるルーナ姫とか
配信というイベント的な出来事の隙間に、なんでもないことのようにふわっと「作られてしまう」キャラクター
このキャラクターとつながる時間が面白くてVを見ているのだけど、「どうしてVなんか見てるの?」という質問に対してこの感覚を説明するのはちょっと難しすぎる(し、野暮ったい気がする)
というか「Vを見ている」ことの説明にはなっていない気がする。僕はそもそもVTuber(であるからこそ)の特異性とか同一性とか可能性とか、そういう当然語られそうなことを語る気があんまりないのかもしれない…
ほかのネットコンテンツを消費するみたいに面白さ(funny)や可愛さみたいな即時的な感情があんまり動機になっていない感じ。もっとスロウな感じ
VTuberもアニメも太鼓の達人も「それじたい」は関心の埒外なのかも
20240828-0829 その語りのなかにキャラクターが残る
すいちゃんが「私たち(ホロメン)はあくたんに会えるけど、リスナーはそうではない」と言っていて、それに対していまあくたんが配信で「一生の別れじゃない」って言ってる
「ネットのどこかにさ、みんなはいてさ、私もいるから」
インターネットという時空の地層、銀河のことを言っているのか?
残ること、残らないこと、忘れること、忘れられないこと
シオンちゃんの配信聞きながら、ホロメンとの関係性が生き続けている限り、湊あくあというキャラクターは残り続けるんだなと
残されたホロメンが湊あくあというキャラクターについて、湊あくあというキャラクターとして、語り続けてくれる
その語りのなかにキャラクターが残るのか
みこちの言葉も良かったなあ
「ホロライブで出会えてよかった
あくたんがあくたんでよかった」
これはキャラを肯定しているように聞こえる
20240903 動いているような気がするから
(※湊あくあ卒業について、「たとえば、転生して欲しいなとか思ってたりするの?」という友人の質問にたいして)
それがねー。俺は個人的に、VTuberはキャラクターだと思ってるんだよね。それを演じるアクター=中の人は、キャラクターを形成するひとつの要素でしかないと思っていて(もちろんそれは大きいはずなんだけど)、それ以外にもアバター=ガワとか、ストーリー=設定とか、うたう曲とか、他のVとの関係性とか、リスナーの二次創作まで含めて、色々な要素が積み重なってそのキャラクター像が立ち上がっているんじゃないかと。だから、中の人が転生して活動はじめても「湊あくあ」というキャラクターはそのまま止まって動かない気がして
結論として、転生するかどうかはどうでも良い、でも、転生したらしたで面白がって1回見に行くとは思う(笑)
今までもそうだったし。
でも、どっちかって言うと、卒業後に他のホロメンが「あくたんに会ったよー」みたいな話をしたり、あくたんの曲を歌ったり、ファンアートが生まれ続けて欲しいな、と思う。そっちの方が湊あくあというキャラクターが動いているような気がするから