不安は自立に必須ではなどと思った朝、そびえ立つビルに極度の不安を覚えた夜
昨夜は娘が寝ているので早めに寝て、今朝は洗い物を片付けないといけないので早めに起きました。音を立てないように気を使う夜は何もできなくて困ります。気にしないでガシガシ洗い物をしたり料理をしたりでも大丈夫だとは思います。思いますが、「今起きてきたら面倒くせえなあ」みたいな気持ちが何もしないを後押しするのです。そういう日が続いているのは湿気のせいかもしれません。カラッとした国で暮らしたい。
娘が起きてきました。すっげえ嬉しそう。今日は娘の誕生日なのです。
「誕生日嬉しい?」
「嬉しい」
本当に嬉しそうだ。
「でも、何もしないでもう何年も経ってるよ。同い年の皆はもう色んなことをやってるよ。本当に嬉しいの、誕生日?」
「んあ」
聞いても無駄なのはわかっていますが、なんだろうなあ、なんの不安もないのはむしろ自分でなにかやろうみたいなことを後押ししないのでは。不安は成長や思考の糧になることも多いはずです。それが一切無いのは果たして幸せなのかどうなのか。
学生の頃の知り合いに「ハッピー◯◯(◯◯は名字)」という仇名をつけられた◯◯クンがいました。ハードロックが大好きでいつもニコニコしてギターを弾いている彼にピッタリの仇名だと誰もが思っていたある夜、泥酔した◯◯クンは「ハッピーということは何も考えていないということか!」と怒りをぶちまけ、仇名を付けた伝説のレジェンドKさんをしょんぼりとさせたのです。その日から◯◯クンの仇名は「シェンカー◯◯」に変わりました。◯◯クンの尊敬するマイケル・シェンカーが由来です。
ハッピーということは何も考えていないということだとは思いませんが、娘は何も考えていない気がします。いや、下手に考えると「世界のすべてがつながったッ!」みたいな方向に行ってしまうので自分の頭で考えないほうがいいのではとも思うのですが、何も考えないと何も変わらないとも思うのです。不安は時にヒトを動かします。考える以前に何の不安もないというのもどんなものなのか。色々悩ましいです。
出勤して仕事をして退勤。今日の夜はまったく縁のない官庁街でのセミナーです。秋葉原から大手町まで歩いてそこから延々と地下道を進みます。やったことはありませんが「8番出口」というゲームはこんな感じなのでしょうか。日比谷駅で地上に出て日比谷公園を抜けて霞が関へ。
途中、大手町の誰も歩いていない大きな通りと道の行き止まりにそびえ立つ巨大なビルの窓から降ってくる明かりにとてつもない不安を感じたのです。雨のせいで地上を歩いているヒトが特に少なかったというのもあるかもしれません。見上げると無限の空間に飲み込まれてしまうような絶望的な感覚。動物としての人間の限界を越えた高さ。ただただ無機質。その後に降りた地下通路の人波も不安を緩和しません。個を失った群。怖い。
夜はダメだな、とにかく不安だ。
朝は娘の何も考えなさに「不安が必要だ」とか思ったというのに、夜は勝手にひとりで不安に陥る。なにがなにやらという気分です。ただ単に官庁街のアウェイ感にやられただけかもしれませんが。
セミナーはちょっと思っていたのとは違ったものの、現状だけでなくこれから先の可能性不可能性がコンパクトにまとめられており、今現在とこれからの価値について考えさせらました。そうなんだよな、変わるんだよな。
会場を後にして都心の地下鉄駅。この時間でもヒトが多いのを忘れていました。どの路線を使うか迷ってしまったものの、急に思い出して最短の路線へ。数駅乗って乗り換え、いつもの路線。少し買い物してから帰宅。
娘、めっちゃ嬉しそう。
「ケーキ食べるの嬉しい?」
「嬉しい」
そうか。そうだよな、誕生日、嬉しいよな。ケーキ食べるの、嬉しいよな。
近所のスーパーで買ったケーキは思っていたより美味しかったです。
ささやかな幸せ、なのかなあ。
そうなのかなあ。
いただいたサポートは娘との暮らしに使わせていただきます。ありがとうございます。