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留学日記#07:ちょっとホームシックになりかけた話

2ヶ月経ってからホームシックになろうとは、全く予想もしていませんでした。初めの頃は、ときどき寂しくなることはあっても、そこまで大したことではなかったからです。

先週、イギリスに旅行してきました。ロンドンはアムステルダムとは違って、とても大きな都市。ロンドン、パリ、ベルリンを東京、名古屋、大阪とすると、アムステルダムは静岡くらいでしょうか。そこまで大きな都市ではありませんが、静かでのどかで、住みやすい街です。ロンドンは、とにかく大きくて、ランドマークがたくさんあります。あっちにもこっちにも見るものがたくさんあって、めまいがしそうです。

そのあとは、ゼミの友人が留学しているバーミンガムに行って、9ヶ月ぶりに再会しました。その夜には、先生もわざわざケンブリッジから来てくださり、4人で楽しい時間を過ごしました。その次の日、飛行機に乗ってアムステルダムに戻ってきたのですが、その夜からどうも気分がおかしくなってしまった。

振り返ってみると、この2ヶ月、本当にいろいろなことがありました。留学にきた最初は何もかもが新しくて、新鮮だった。それと同時に、いろいろと小さなことで気を揉んでいました。ビザの申請が間に合わない(危うく不法滞在になるところでした)、携帯のSIMカードがうまく使えない、学生証を取りに行く場所がわからない、問い合わせ先の人があまり親切ではなくて(愚痴ですね、すいません)英語も上手に喋れないから聞きたいことを聞けない、授業になかなかついていけない、グラタンを作ろうとして焦がした(これはそうでもないか)、まあ今思えばそんなに大したことではないんですが、小さなストレスが、知らず知らずのうちに心の中で溜まっていたのかもしれません。

それに気づかなかったのも、そのストレスよりも、新しいものに出会った、その興奮の方が、その喜びの、ワクワクの方が、大きかったからかもしれません。そのストレスが、忙しさにもまれた3月、その休養も兼ねて訪れたイギリスの旅行で、ゼミの友達と久しぶりに再会する中で、どこかで堰を切ったように出てきてしまったのかもしれません。

それに加えておそらく原因になったのが、日本の新学期。みんなは無事に進級して、新しい授業も始まって、ゼミでも新たに3年生を迎えています。サークルでは3年ぶりに対面での新歓が始まって、なんだか楽しそう。一方で、こちらでは大した変化もなく、(ヨーロッパでは新学期は9月なので💦)大学でもそんなにたくさんは友達はいません笑。なんだか取り残されたような気分になってしまったのかもしれません。

あともうひとつ心残りで気にしているのは、家族や友人をこちらに呼ぶことができないということ。渡航の条件はだいぶ緩くはなりましたが、やはり日本の渡航条件は厳しく、スケジュールのことや、コロナのことを考えると、こちらへ呼ぶのはどうしても難しい。僕の寮の友人は半分近くはドイツやデンマークなど、ヨーロッパの他の国出身で、彼らはビザやワクチン接種証明書もいらずに友人や家族を呼び寄せることができます。それをみてしまうと、どうしても悲しくなってしまいます。こればかりはどうすることもできないし、僕がここに来れただけでも幸運なこと。それはわかっているのですが、やっぱり悔しいものは悔しい。

「何者でもなくなった」自分

そういうことが重なってくると、だんだん気持ちがダウンしていって、それに伴って自信もなくなってきます。こっちにきてから思うのは、「自分は何者でもない」のだということ。日本にいたときに持っていたアイデンティティは、ここでは全く通用しないのだということを、思い知らされています。

大学では結構頑張って勉強して、ゼミでも活発に発言していたつもりでした。でも、ここではそのことは誰も知らないし、言葉の壁があるし、周りの人ほど授業に貢献できているわけではありません。むしろ、毎週のリーディングの課題に追いつけず、授業についていけないこともしばしばです。

僕は日本では割とよく喋るタイプだと思われていますが、ここではむしろおとなしい方だと思われているかもしれません。友人同士の会話は当然英語で、しかも速すぎて聞き取れないこともしばしば。特に母国語が英語の人同士の会話は、とても速いですね。その中で割って入ることもできず、ただただ聞いているだけのこともあります。日本にいた時ほど、思ったことを伝えられない、そんなもどかしさも感じています。言語の壁というのは思っている以上に大きい。

日本にいたときは、細谷ゼミに入って国際政治史を勉強していて、サークルではトライアスロン部に入って選手とマネージャーをしていて、昔は中学生と高校生の陸上指導をしていた。そんなことが僕のアイデンティティでもあり、僕をある意味で「よく見せて」いてくれたのかもしれません。でも、それはここでは通用しない。誰も僕の過去を知らないのですから当然です。僕は日本人であるということ、留学生であるということ、それ以外にはもはや「何者でもなくなってしまった」と言ってもいいかもしれません。

周りを見渡せば、自分の寮は大学院生が半分くらいで、働きながら勉強している人もいる。一人暮らしもみんな上手くこなしている。少なくとも僕にはそう見えます。大学に行けば朝から自習室は満杯で、みんな本当に自分がやりたい勉強をしに大学に来ている。語学も堪能で、コミュニケーション力も高い。まあ、コロナに対する意識は日本よりは格段に下ですが(笑)

僕の寮で一番仲の良い人は、僕より2歳か3歳年上で、南アフリカから留学に来た大学院生。英語の発音がとても綺麗で、聞いていてほれぼれします。彼はオンラインで仕事をしながら、大学院のゼミに出ています。とにかく落ち着いていて、何かと焦って気を揉む僕をいつも安心させてくれます。英語の会話がうまくいかない時も、助けてくれます。料理も上手で、僕に教えてくれます。いつも助けてもらってばかりで、申し訳なくなって、ときどき心の内を打ち明けると、いつも笑って”Don’t worry.”と言って、”Whatever you do, I’m happy.”とまで言ってくれる。どうやって育てば、あんなに心に余裕を持った人が生まれるのか。本当に尊敬しますし、羨ましい。もはや彼の「お友達」を名乗るのも恥ずかしいくらいです。むしろ先輩、お兄さんのようです。

先日、とある後輩と話していて思い出したのですが、今までとは違う環境に飛び込んで、自分には到底敵わない人と出会うこと。それが、大学生活の中で決定的に重要だということを痛感しています。大学1年生になって、僕もクラスやサークルでそういう経験を何回もしましたが、いつしか大学のコミュニティに慣れてしまって、その気持ちを忘れてしまっていたのかもしれません。新しいコミュニティになれるまでにはものすごく時間がかかるんですが、だんだん慣れてくると一気に溶け込んで、できることが増えてくるのが僕の性格。幸運なことに、大学生活の中盤・後半はなんだかんだうまくいっていました。それもあって、少し驕っていた、油断していたところがなかったとは言い切れない。

それが留学に来て、今までとは全く違う人たちに囲まれて、自分よりも遥かに能力の高い人たちに囲まれて、打ちのめされた気分です。自分とは経歴も全く違う、自分にはない能力をもった、魅力的な人たちに囲まれて、埋もれてしまうのではないか、自分は何も持ってないのではないか。そういう不安、このモヤモヤした気持ちは、なんとなく当時のことを思い出させます。

慶應にいた頃、特にこの1年間は、なんだかんだうまくやっていたのかもしれません。だからこそ、自分が成長している、自分が前に進んでいるという実感が強くありました。でも、今は全く新しい環境に身を置いて、今までに出会ったことのないような人に出会って、打ちのめされる。自分の無力感、能力のなさを実感させられる。そういう時には、あまり自分が変わっている、自分が成長しているという実感がないのかもしれません。

人は前進するためだけに生きているのではない

でもその一方で、人は前進するためだけに生きているのではない、という先生の言葉を、今とても強く実感しています。今まではなんとなく、何かしら成長することが大切で、そのために一生懸命努力することが大切だ、とずっと当たり前のように考えてきました。でも、前進して、成長しているだけでは、見失ってしまうものもあるんじゃないか。時には、前進できない時が、あるいはあえて前進しない時があってもいいんじゃないか。そういうふうに考えるようになりました。

僕の好きな旧約聖書「コヘレトの言葉」のなかに、こんな一節があります。最近新訳が出て、だいぶ読みやすくなりました。一度、留学を辞退した時のnoteでも、引用したかもしれませんが、もう一回紹介します。

何事においても最もふさわしい時機があり
この世の中のすべてのことには時がある。
生まれる時があれば、死ぬ時がある。
植える時があれば、植えたものを引き抜く時がある。
殺す時があれば、癒す時がある。
壊す時があれば、建てる時がある。
泣く時があれば、笑う時がある。
嘆く時があれば、踊る時がある。
石を投げる時があれば、石を集める時がある。
抱擁する時があれば、抱擁をやめる時がある。
探す時があれば、探すのをあきらめる時がある。
取り置く時があれば、捨て去る時がある。
引き裂く時があれば、縫い合わせる時がある。
沈黙を保つ時があれば、口に出して言う時がある。
愛する時があれば、憎む時がある。
戦う時があれば、平和の時がある。
(コヘレトの言葉第3章第1節)

「すべてのことには時がある」。「時」というのは、流れゆく「時間」のことではなくて、「時機」「タイミング」くらいの意味です。つまり、すべてのことには、それに相応しいタイミングがある、ということをこの一節は説いています。

人間は常に前進しているわけでもなければ、常に成長し続けるわけでもない。良い方向に向かう時もあれば、好ましくない方向に向かうこともある。止まる時もあれば、戻る時もある。それぞれ、相応しい時があって、良いも悪いもない。それぞれに固有の価値がある。だからそれぞれの「時」を、その「時機」を、見逃してはならない。そういうメッセージが伝わってきます。

だとすれば、今僕が「停滞」あるいは「後退」しているとしても、それはすべて自分にとって必要な「時機」なのだろうと思います。それを無理やり、「前進」させようとするのではなく、「止まっている」「後退している」自分をもっと素直に受け入れてもいいんじゃないか。そう思っています。

今まで勉強してきたことを学び直したり、今までの3年間のことを振り返って内省する時間を作ってみたり。今まではやってこなかったようなこと(料理とか?)に挑戦してみたり。改めて自分の進路を考え直してみたり。慣れたコミュニティを離れて、改めて人間関係を考え直したり、大好きな人たちに思いを馳せてみたり。そういう、少しゆったりとした時間を過ごしてみるのも、人生においては必要なのだろうと思います。僕は少し、日本にいたときは頑張りすぎていたような気がしています。この半年間は、その休養の期間と割り切ってしまってもいいかもしれません。常に成長を求め続けるのは、疲れますから。

日本にいる皆さんも、徐々にコロナ禍から元通りの生活に戻りつつあることと思いますが、依然として大変な思いをしていらっしゃる方も多いかもしれません。それでも、しっかりこの1年を生き抜いて、新しい春を迎えられたことだけでも、それだけでも、十分素晴らしいことだと思います。これは割と確信しています。

いずれまた、前進する、目標に向かって走り出す「時機」が来れば、その時にまた走り出せばいいのであって、時には止まったり、来た道を戻ったり、はり帰ったりしながら、未来を展望する時間も必要なのかもしれません。ちょうど僕たちが歴史を学んで未来を展望するのと同じように。

何よりも喜ばしいことは、こういう時でも、僕が日本を離れてみなさんに会えない状況であっても、定期的に連絡をとってくれたり、InstagramやFacebookの投稿に反応してくれる方がいるということ。オンライン化が進む中で、海外にいても日本の活動になんらかの形で加わることができ、またそれを迎え入れてくれる人がいるということは、とても嬉しいことです。

また、こちらの気持ちを思いやって、「休むことも大事だよ」と言ってくれる人や、その一方で「この本全部読むまで帰ってくるなよ」と鼓舞してくれる人もいて、そうした言葉のすべてが、今の僕の原動力になっています。そんな皆さんと出会えたことを嬉しく思うとともに、感謝の気持ちを新たにしています。そうした人たちの言葉に癒されながら、身を引き締めて、こちらでの生活ももうすぐ半分、頑張っていきたいと思っています。

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