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ジンメン

小学生の頃である。家の近くにジンメンの木があった。
誰が名付けかは知らないが、幹にある大きなコブが人の顔に見えることからそう私たちは呼んでいた。「人は三つ点があると顔みたいに認識する」らしいが、そんなものでは無い。かなりギョッとするようなリアルさなのだ。目や耳、口だけでなく顔の皺まで再現されており、昔々悪いことをした人が罰で木に取り込まれてしまった などと子供に嘯く親もいたらしい。

そのジンメンは、私の家の近くにあったものだから、小学生の頃は放課後に友達と遊ぶ時はみんなで一度見に行って「うわー、気持ちわるーい」と言うのがお約束になっていた。
日中見るのは良いが、夕方になり陽が傾きだすと陰も相まってまるでこちらを睨んでるように見えるこの木が嫌いだった。早く切り倒してくれないものだろうかと母に聞いたが、木も生き物だから無駄に切る必要ないと言われるだけだった(今思えば植物好きの母に聞くべきではなかったのかもしれない)

中学生、高校生と思春期を迎え、自分の興味が自分自身や他のものへと移っていくと、いつの間にかジンメンは私たちに忘れられ、次第に一本の街路樹へと変わっていった。目線の高さにあったコブも心なしか小さくなっているように感じていた。それ以来「ジンメン」は「ただの木」になった。

社会人生活も数年を迎え、久しぶりに実家に帰った時に友人らと飲むことになった。地元の風景は大きく変わらず、数軒新しいお店や人が増えているものの、あの頃と同じ空気感を纏っていた。
夜も遅くなり、時間と共に増えた私の血中アルコール度数は早めの帰宅を促している。おぼつかない足元の友人と帰りながら、ふと「ジンメン」のことを思い出した。彼もその木のことは覚えていたようで2人して探しに行くことにした。
深夜0時を回り、いい年をした赤ら顔の男性2人が街路樹を触りながら唸っていた様は不審者に違いなかったがその後すぐに私たちは「ジンメン」と再会した。腰ほどの高さになったコブをかがみ込んで見てみる。てっきりあの顔と出会うと思っていたが、そこにはなにもなかった。ザラザラとした表面が波打ち、傷や枝の折れた痕がついているだけでおおよそ顔に見えるものはなかったのだ。それもそうかという納得と、期待していた気持ちも着地させる場所を見失い、私たちは少しの間無言でコブを見つめていた。その後どちらからともなく立ち上がりそれぞれ帰宅した。

自分の部屋に戻り、布団から天井を見上げる。寝ようとするも頭を過ぎるのはジンメンのことばかりだった。あんなにザラザラしてたっけ。もっとあの部分が目に耳に見えていたはずなのに。そもそもあんなに小さかったっけ。時間が変えてしまったのは木のコブだろうか、自分の認識なのだろうか。

いつか子供が出来たなら、連れて帰って来た時に見に行こう。そしてその子にどう見えるか聞いてみようと決意し、私は眠りへと落ちていった。

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