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五島へ弔問に行ってきた話
一人暮らしをしていた伯父が施設に入り、いわゆるコロナ禍の最中で面会もままならなかった頃、鹿児島に住んでいた甥が急死した。一昨年の夏のことだ。新型コロナウィルスが原因の心筋炎だった。ほどなくして、その秋に伯父の寿命が尽きた。
そして昨年の五月、長崎県の五島市に住むM先生の訃報が届いた。それから一年して、今年の四月にわが社の会長(先代社長)が亡くなった。
身近な人や大切な人を喪うことは確かに人生の宿命だけれども、そうしたことが相次いでやってくると、さすがに打ちのめされる。
わが社の会長には恩義がある。生来の偏屈のせいで自営業がうまくいかなくなった私を拾って、今の立場に置いてくれた人なのだ。その恩義には、どんなに感謝しても感謝しきれるものではない。
M先生からもまた、大きな恩恵を受けた。昨年ご逝去の連絡を受けたときはなんだかショックで葬儀にも行けず、ずっと気がかりを感じながら過ごしていた。ところが、一周忌も過ぎたある日、社長が急に「弔問に行きましょう」と提案してくれて、今回の旅となった。
しかしスケジュール調整がうまくいかない。けっきょく、鹿児島の甥の三回忌の、その前日に五島を訪ねることになった。社長は当日のうちに東広島にとんぼ返りし、私はその足で鹿児島に向かう予定だ。
「五島へ日帰りする人は初めてです」と、旅行代理店が呆れた。
当日の朝になって気がついたのは、こういうちょっと改まった旅行に着る夏用のボトムスを、私は持っていないということである。ありていに言えば、最近とみに出っ張ってきた腹部がちゃんと収まるズボンが無い。普段履いているのは、腹は入るのだが裾がすり切れて来ていて少々みっともない。
法事があるので礼服も持って行かねばならないが、そういうとき用のスーツケースも持っていない。当日の朝に気づくことではないとは思うけれども。
最終的に、きついズボンのフックを留めず(ベルトで隠して)履くことにし、スーツケースは義母のを借りた。
土曜の朝の東広島駅はいつも駐車場が満杯になりがちで、気をつけておかないと、それで列車に乗り遅れることもあったりする。実際に乗り遅れたことがある。
なので私はだいぶ早めに着いたのだが、同道する社長が遅い。心配していたら何食わぬ顔でやってきて「隣の民間駐車場に問題なく駐めれた」と。うんまあその方が安いしよかったね。
博多までの新幹線は順調。福岡空港までの地下鉄にも迷わないで乗車できた。しかし、保安検査場の入り口で止められた。旅行代理店でもらったJALのQRコードの読み取りがエラーになって、係員がJALのデスクに行けと言う。そのデスクではさんざん待たされた挙げ句「1階のANAのカウンターへ」と指示された。えっ、JALじゃないの? と、社長と顔を見合わせたが、後で調べてみたところによると、どうもこの便はORC(オリエンタルエアブリッジ)とのコードシェア便だとか。だからこんなややこしい事態が生じるのか。知らんけど。
ANAのカウンターでチェックインをやっと済ませたと思ったら、こんどは私の荷物の大きさが機内持ち込みサイズを超えていると指摘された。五島へ飛ぶ機体はプロペラ機で小さいため、持ち込める荷物の大きさもジェット機と比べたら制限が厳しいのだろう。おかげでとても身軽になれたけど。
出発ロビーでしばらく待機した後、予定より10分遅れでバスに案内される。福江便は空港建物から離れたところに駐機しているので、乗客はバスでそこへ向かうのだ。
それにしてもさすが国際空港である。見たこともないような各国の航空機がずらりと勢揃いしている。大型ジェット機が、ひっきりなしに着陸し、また飛び立っていく。比較しては申し訳ないが、ここに比べたら広島空港はずいぶんのんびりしている。
バスを降り、タラップを登って機内に乗り込む。機体はボンバルディアDHC-8ー200で、座席数は三十九席。着席してシートベルトを締める。お決まりの機内アナウンス。いよいよ出発。
…が、いっこうに動かない。
しばらくしてのろのろと動き出したが、滑走路の手前で再び止まってしまった。目の前の滑走路に後から来た大型機が進入し、離陸していく。今度は別のジェット機が舞い降りてくる。われらがボンバルディアはそれを悲しく見つめながら、ただひたすら待っている。
正午もとっくに過ぎ、隣に座っている社長の腹がぎゅるると鳴った。そしたらまるでそれが合図であるかのように、機体がゆるゆると動き始めた。ぎゅるるが管制塔まで届いたのか。しかし遅れはもはや10分どころではないのだった。
後で聞いたのだが、到着後の乗り継ぎがない便は、滑走路使用の優先順位が低いのだという。それはあんまり可哀想じゃないか、滑走路をもう一本増やせよ! と強く思った次第である。
機内にはマスクを装着した人がまだかなり多かった。私はもう2ヶ月ぐらい前からマスクをしていない。そういえば客室乗務員もマスクをしていない。やはり表情がわかるのはよいことだと思う。ちなみに社長はマスクをずっと顎にかけているが、それは何のためですか?
天気はよい。しかし小型機はやはり揺れる。飛び立ってしばらくしたらもう着陸態勢だ。小さな島々が眼下を過ぎ去っていく。海の色は紺。浅いところは少し緑がかっていて、白い波が島々を縁取っている。沖では船が航跡を描いている。
ちなみに、五島へは博多港からフェリーも出ている。二度ほど乗ったことがある。夜中に出港して朝方到着するのだが、夜明けに見る島々の美しさは格別だ。日本の海の魅力は多島美に尽きると言ってよいのではなかろうか。
福江空港の愛称は「五島つばき空港」という。五島市は椿で有名で、「玉之浦」という美しい品種は世界的な名花として知られている。椿油も名産品だ。
空港へは、亡くなったM先生の奥様が、わざわざ迎えに来てくださった。飛行機が遅れたせいで、既に午後一時を回っている。お昼を食べようということになり、工場併設の五島うどんの店に連れて行ってもらった。五島うどんは細い麺で、五島沖で獲れるアゴ(トビウオ)だしのおつゆで食べる。社長は「地獄炊き」という物騒な名前のメニューを頼んでいたが、名前に似ず美味そうだった。
奥様の話によれば、NHKの朝ドラで採り上げられて以来、観光客が急増しているそうだ。昨年に放映されたフジテレビのドラマの影響もあって、今もまだ地元民も高速船や航空機のチケットが取りにくくなっていると。
また、古民家へ移住して来る若者も多くいて、リフォームを手がける大工さんが大忙しなんだとか。
弔問に来たはずなのに、空港まで迎えに来ていただいたり、うどん店に連れて行っていただいたり、奥様にはすっかりお世話になってしまいつつ、このたび新築されたご自宅でM先生のお骨と面会した。
体調を崩し、ひと月あまりの入院の末に亡くなられたという。七十歳だった。岐宿町で長いこと診療所を開かれていて、ご長男が診療所を引き継がれた後、ご本人は農業に勤しんでおられた。次男が鍛冶屋、三男が桶屋を、地元で営んでいる。
七年前に直接聞いたところによれば、先生は若いころに勤労者山岳連盟の随伴医師としてネパールに行き、そこで現地の人々の暮らしを目の当たりにして、現代石油文明に疑問を抱いたという。それがきっかけで、やがて日本の伝統的な技術を活かした生活を実践しようと考えるようになったのだそうだ。次男と三男が伝統的な技術を身につけて職業としたのも、先生の強い勧めがあったにせよ、その思想に感化させられたからだろうと思っている。
余談だが、むかし読んだダグラス・アダムスの『宇宙の果てのレストラン』というハチャメチャSF小説に、「けっきょく二十世紀文明がしてきたことは地中から黒くてべたべたしたものを掘り出して地表や海にまき散らしただけ」という皮肉が書かれているのだけれど、極論すればまさにそのとおりじゃないだろうかと私も思う。
新築されたお宅のすぐ隣に、先生が七年前に建てられた茅葺きの家がある。私とM先生の関わりは、この家の建築計画から始まる。
日本の伝統的な技術を活かした生活を実践しようとした先生は、茅葺きの農家に住むことを企図し、いろいろ伝手をあたったという。最初に出会った建築家は「扠首構造」を知らなくてお払い箱に。その後、西中国茅葺き民家保存研究会のUさんや、K大学工学部のI先生、茅葺き職人のO氏たちとの出会いがあり、現存している古民家を五島へ移築するプロジェクトが立ち上がる。
先生が購入した古民家は広島県世羅町にあった。先生は家族を引き連れて来広し、K大学の学生たちと一緒に、屋根の茅を下ろし、土壁を壊した。Uさんの紹介でわれわれが参画したのは、そうして建物が骨組だけになってからである。移築なので柱の位置や間取りを大きくは変えられないが、現代の暮らしに合うように、K大学のT君たちのグループが設計を進めていた。私たちに託されたのは、構造的な検討と実務面だった。
年末から正月明けにかけて、気むずかし屋のH大工が打った水墨に基づいて軸組の調査を行った。北側の柱のほとんどは、取り替えるか根接ぎが必要なことがわかった。
主要材がすべて解体されて一〇トントラックに積まれ、フェリーで玄界灘に乗り出したのは二月の初めだった。
基礎は自然石を使った石場建てである。現地の土木業者の親父さんが苦労しながら据え付けた。H大工が現地で材料を補修、加工し、六月に上棟した。屋根には海岸に生える葦が葺かれた。ススキなどに比べ堅くて長いため、茅葺き職人のO氏は、刈り込みではなく叩き仕上げを選択した。
同時に土壁の下地となる木舞の施工も始まり、M先生と奥様は連日現場で作業。ちなみに、屋根の葦は前年に刈り取って乾燥してあった。土壁の土もかなり前から練って発酵させてあったものだ。
完成まで、何度も五島に渡った。社内旅行でも行った。工事を監理する傍ら、レンタカーを借りていろいろ観光して回った。春には菜の花が一面に咲く魚津ヶ崎。夏には白い砂浜が息をのむほど美しい高浜海水浴場。レンガ造の堂崎教会。瀟洒な木造の水の浦教会。
特に水の浦教会は、鉄川与助という教会堂では名の知れた設計者の手になるもので、内部の装飾がたいへん軽やかで美しい。映画『くちびるに歌を』のロケでも使われている。
閑話休題。
茅葺きの家には現在、三男の家族が住んでいる。
リビングダイニングの暖房用ロケットストーブは、M先生手づから据え付けられたもので、今でも問題なく稼働しているそうだ。ロケットストーブについてM先生はすごく研究されていて、試作品を何度も見せられた。東広島市にあるY珈琲研究所にも案内したことがある。
奥様がいま住まわれている新しい家は、断熱材もしっかり入っていてクーラーも付いている。昨今の異常な暑さのこともあるし、やはり快適さは新しい家にはかなわないのだろうな…と思いながら茅葺きの家を訪れてみると、風が吹き抜けていて、かなり過ごしやすい。新しい家とは涼しさの質が違う。
「それにね、これを見て村若さん」と奥様が漆喰で白く仕上げられた土壁を指さす。なんのことやら解らず「これがどうかしましたか」と訊くと、「ひび割れがいっさい入っていないでしょ」と。
実は、昔ながらの木舞を下地とした土壁の初期剛性はかなり高い。大きな地震ではひび割れることもあるが、ひびが入ってからも強度があまり落ちない。粘り強いのだ。構造を設計するにあたって、壁の配置にはたいへん気を遣った。この家は完成後すでに数年間が経過しているから、地震には遭っていなくても台風は何度も経験したはずだ。土壁がその本領を如何なく発揮しているとわかって、ちょっと誇らしい気持ちになった。ついでに言えば、土壁は調湿性能も断熱性能も優れている。
だが、後で桶職人の三男がやって来て「土壁にネズミが穴を空けるので困っている」と。うーむ、そういう弱点があったか。
「この古箪笥も主人と東広島で買ったのよね…」と、奥様が愛おしそうに家具を撫でる。10トントラックを駆って夫婦で東広島に来られ、古材店を巡って古い建具や家具を購入されたのだ。
「そういえば床の間の床柱も、そのとき東広島のS木材で買われたんですよ」と私が言うと、
「そうそう。ちょっと細いかなとは思ったんだけどねえ。他に良いのがなかったのよね」
「持って帰ったら、大工さんが『こんな細いのが使えるか!』ってヘソを曲げて」
「そうよね。でもまあ上手く取り付けてくれたじゃない」
「本当にいろいろありましたね」
「大変だったけど楽しかったなあ、あの頃…」と、遠い目をする奥様。
七歳と五歳の孫(三男の息子たち)が足元でずっと跳ね回っており、あんまりしんみりできる雰囲気ではなかったけれど、ひととき懐かしさに浸った。
M先生に最初会ったときは、どちらかといえば小柄な身体から滲み出るそのバイタリティに驚かされた。しかし粗野な感じではまったくなく、インテリジェンスに裏付けされたバイタリティだった。自らの思想を、趣味ではなく生活で実践するために精力的に活動をされていた。しかも医師の仕事と並行して。
むろん私などがその真似をできるはずもないが、影響を受けなかったわけではない。石油文明に対する懸念は今も心の奥底に渦巻いている。古民家移築というプロジェクトは、その懸念に対する解答のひとつだが、また別の解答もあるかも知れないと思っている。それは今後の、私自身の課題だ。
…と、ここで終われば格好良く収まるのかもしれないけれど、今回の「追悼の旅」はこのあとも続く。先を急ごう。
M先生の奥様に「また来ます」と挨拶をして、一八時二〇分福江空港発の飛行機で五島を後にした。しかし、福岡空港の滑走路がなかなか空かず、機は上空で何度も旋回をした。おかげで社長は新幹線の指定席券をふいにすることになった。
私は福岡から九州新幹線を南下。鹿児島中央駅近くのホテルへ着いたのは午後十時前だった。
そして翌朝は隣室の騒がしい声で目が覚めた。パリ・オリンピックのサッカー中継を観戦しているらしい。大声だけならまだしも、床を踏みならすのはやめてほしい。
しょうがないのでテレビをつけたら天気予報をやっていた。鹿児島では「桜島上空の風向き」予報がある。珍しかったので鹿児島在住の弟にそう告げたら、「なに広島にも『カープとお天気』があるじゃないか」と言った。
午後は甥(弟の三男)の三回忌に参列した。といっても弟家族以外は私だけの、七人のこぢんまりした法事だった。先に弟の家で礼服に着替えたが、暑くなりそうだったのでけっきょく礼服の上着は着ず、白の半袖シャツに黒ネクタイという格好で、皆と一緒にクルマで会場へ行った。
法要のあと会食をして、鹿児島中央駅から広島へ向かう新幹線みずほ号に乗り込んだ。福山の大学で建築を学んでいる甥(弟の次男)も一緒に帰る。
弟の嫁が持たせてくれたサンドイッチを頬張りながらよもやまの話をした。
「しかしこのパン美味いな」
「鹿児島に『あいらぐまのパン屋さん』というのがありまして」
「あらいぐま?」
「『あいらぐま』です。ほら、姶良カルデラの『あいら』」
「へー。しかし完全にウケ狙いのネーミングだねぇ」
そんな愚にもつかない話をしていたら、スマホに弟からメッセージが入った。
「兄者。礼服に着替えたときのジャケットがうちに忘れてある。」