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「表現」を社会資源と見なす前に

一昨年度から委員を委嘱されている岩手県文化芸術振興審議会。県の文化政策を評価したり、その方向性に意見を寄せる委員会です。少し前に今年度1回目の会議がありました。

10年ごとに更新される県民計画の、今年は新しいスパンに入ります。県の文化芸術指針も更新になります。その方向性を定めるために、今年は会議の回数も増えます。

十数人の委員の方がいますが、私には主に障害者の芸術活動に関する方向性の意見を期待されているようです。(それ以外についても発言します。)

この領域に関しては近年、とかく表現を「文化」という名の「社会資源」として「活用」するための手続きが、活発化している動向が気になっています。端的なのが、様々な文書に散見される「発掘・評価・発信」の文言。

私は以前から、県の担当課の方々や、県内外でこの領域に携わる様々な方とのコミュニケーションの中で、こういった文言を当然の方向性として単純に遂行してしまったなら、それは一種の社会的暴力となる危険性をはらむという意見を、繰り返し話してきました。


個人の表現はその出発点において、社会資源ではありません。

表現とはそもそも、そこに一つの命があり、その命が「ここに確かにある」ことを表そうとする光のことです。ちょうど蛍が自らを光らせるように。

社会は、何でも資源として活用します。蛍を集めて照明器具にしようとか(中国の故事?)、観賞用に蛍を繁殖させようとか。けれど蛍は資源になるために光ったのではなかった、表現は資源になるために光ったのではなかった、ということはとても大切な事実です。

蛍にとっての光の意味。その人にとっての表現の光の最初の意味。

その一番始まりにある意味が見失われる社会にはしたくない。それは、命と存在の最初の意味を忘れた社会を意味するからです。

もちろん、個人の表現が社会で共有されることによって生まれる大きな恩恵はあります。表現が社会のネットワークに乗ることによって、ある人の表現が別の誰かの内を深く震わせ、互いの生を活かし合う。人と人の間で、そんな心と命の行き交いも起こります。芸術と呼ばれるものの大事な神秘であり、社会が芸術を必要とする本当の理由です。
それはいわば誰かが自分の心と命を、他の誰かの糧として――心と命の食べものとして、分かち合う行為です。表現を社会に共有するということの本質的な意味は、正しくそれに尽きます。

だからこそ、その人が「食べてください」と言っていないのに、「あなたの心を私に食べさせてほしい。みんなに食べさせてほしい」とは、他者が軽々に言ってはならないのです。その表現にどんな魅力や社会的価値があったとしてもです。(その光景は私に宮澤賢治の「フランドン農学校の豚」を連想させます。)

それは個人の心の収奪、あるいは個人の表現の家畜化とも言うべき状況へと近づく、危険な振舞いです。


表現を社会資源として活用する慣例は、すでにずっと昔に確立しています。供給側と需要側、双方合意で表現を公開したり、経済上の財として取り引きしたりするプラットフォームも確立しています。
それゆえ、心と命の光である表現も市場原理にさらされます。自分の表現を市場原理にもとづいて需要にマッチさせようとするうちに、あるいは新たな需要を創出しようとするうちに、自身の表現の源泉を見失うアマチュア芸術家や職業芸術家も数多くいます。

表現が社会資源である風景が、あまりにも久しく当たり前だからこそ、私たちの意識から薄らいでしまった始まりの光の意味は、繰り返し問い直し続けなければならないと思っています。

果たして、文化行政の指針にそのようなデリケートな意図を、何かの形で刻印することが出来るだろうか。
私が委員として自分に問うているのは、その道筋です。

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