モンターニュの折々の言葉 372「根っこのこと」 [令和5年4月21日]

「思想は絶対的な価値というものを体系化するわけですからね。もっとかみ砕いていえば、人間を飼い馴らしするシステムなんでしょう。もうちょっといいかえると、人間というものは飼い馴されなきゃ猛獣であって、飼い馴らされてはじめて社会を構成する人間たりうる。そういう知恵をもった民族が、それをつくり上げたわけですね。ところが、ぼくは山本さんがご指摘になったように盆地に住んでいて、しかもお粥腹で2千年ほどやってきましたから猛獣になるほどのエネルギーはない。その上、飼い馴らされなくても、たいして悪事はできない。だから、飼い馴らしのシステムが入ったことがない。」「大阪人が違和感を持たれるのは、ここだけが東支那海貿易の室町期のイメージがのこっているからでしょう。だから、貨幣経済といっても威張っておれないところがあるんです。明治以後の明快な官僚論理のうえに成立して、官僚指導のもとに出来上がった武士モラル、そのうえに存在する貨幣経済ーこれが、日本の筋道だと思うんですけれども、そうではなくて地生えの貨幣経済で、しかもそれは新潟や柏崎とかああいったところの貨幣経済ではなくて、東支那海貿易の影響で出来あがった貨幣経済のところは、いまだに「台はずせ」の伝統ですな。 政治というのはそういう諸価値の上に成立しているから、われわれの政治というのは難しいですね。政治家像といっても、理想的なクレマンソーを持ってくるとか、チャーチルを持ってくるとか、そんなことはなかなかできそうにもない。」

司馬遼太郎「八人との対話」の山本七平との対談「日本人のリアリズム」の司馬遼太郎の言葉

 今日も朝は、ゴルフの練習場に行って、アプローチの練習と、7番ウッドやユーティリティのショットの練習を。と、書くと、早くも、もう読むのはやめたという方もいるでしょうが。昔は自分でも呆れるほどにゴルフに熱中した人が、ある時からパタッとしなくなるというのはよく聞きます。それは若い頃のようなゴルフがもう出来なくなったことから来る、失望感のようなものがあるからかもしれません。ゴルフに限らず、かつては、という輝かしい過去を持つ人は、過去と現在のギャップが大きければ大きい程、そうなってしまうのかもしれませんね。私は幸いにして、そういう輝かしい過去はありませんので、始めた頃と同じ、いや、むしろ、始めた頃よりも夢中に熱中しているかもしれません。

 年金生活者ですから、時間は沢山あります。時間があるというのは、考える時間もあるということ。よく初心に帰れ!と言いますが、世阿弥の言葉を引用せずとも、この初心という言葉には、すべての学びの本質的なものがあるように思えます。自分が何か新しいことを始めようとする時に、大事なのは、その気持ちの純度の高さでしょう。男性ならば女性にモテようとか、女性なら男性にモテようといった不埒な、あるいは、嫌いな上司をぎゃふんといわせたいためにやるといった不純な気持ちでは、長続きしないでしょう。勿論、ライバルを目標としてやること自体は、人間ですから、自然なことでしょうが、ライバルがいなくなったら、どうするのかと。

 いずれにしても、身体の若さは永遠のものではないのですから。求めるならば、心の若々しさでしょうね。精神は、人の知的な働きを指しますが、心は、人の情的な働きを指します。スポーツは身体運動で、同時に精神運動でもありますが、長く続けるためには、心がちゃんと働かないといけない。体を鍛えるスポーツではあっても、心が強化されないままでは、身体の老化と共に、そのスポーツはできなくなってしまいます。

 初心には、その他にも色々な意味があるでしょう。ゴルフならば、ゴルフで求められる基本というものが。語学なら、言語というものの本質的なものが。基本であり、かつ本質的なものを最初に感じる、それが大事なんですね。そうして感じた、基本的で本質的なことを、いつの間にか心が忘れてしまい、思うようにならず、そして、三日坊主的に辞めるか、あるいは、身体の老化に引きづられて、精神も老化し、初心の時の情熱の火は消えていってしまう。それがまあ、多くの人のケースでしょう。


 そう言えば、在外で勤務する同期が、公務員、なかんずく外務省員は、仕事上、報告書を書くのが習いのようになっているので、その習性もあって、本を執筆する人が多いのではないかというコメントを送って来ました。確かに、外交官は報告書(電報などの公電等)の作成が上手。非人称構文の文章が上手いとも言えます。しかし、電報は公文書になりますが、手紙のような私的文書ではない。公文書は、小説やエッセイのそれとは違いますし、論説文とも違う。それ故に、公文書の作成が上手であるからといって、誰でもが読んでわかりやすい文章を上手に書けるとは限らない。

 また、事務能力の高い人が文章作成能力がすぐれているかどうかについては、なんとも言えない。言語能力の高さ=事務能力の高さ、とは一概には言えないのでありますが。ただですね、事務能力の高さを知るには、書き言葉ではなくて、話し言葉を見れば(聞けば)わかりますね。役人は確かに、物書きではありますが、実務において人を動かすのは、書き言葉じゃないでしょう。

 日本の政治、経済の分野でリーダーと称される方々は概ね、書くことにすぐれているというよりも、話すことにすぐれている人が多い。日本人は伝統的に、書かれた言葉よりも、口から出た言葉を重視してきたでしょう。それが歌であり、短歌であり、俳句。日本人は、長々しい書き言葉よりも、歌のような、詩のような言葉を語る人をリーダーとして来た。私が親しくお付き合いをさせて頂いているとある元外交官は、元役人に似合わずというか、会話に長けている。コミュニケーションに長けているということですが、彼は書く人ではなく、話す人。

 話す方が書くことよりも、より的確な言葉を選ばないといけない訳で、それができているのは脳が常に活性化されている証左でもあるのでしょうが、日本のリーダーとして称賛されている人は、自己顕示力というものを感じない人で、特に日本人の美徳の一つとされる、謙譲の美徳を有している人ですね。この謙譲の美徳というのは、どうも書き言葉にすぐれている人にはあまり見えない。書き言葉は、西欧文明の申し子のような面があって、相手を説得する、打ち負かすことが全面に出やすい。一方的になりやすいということ。昨日ご紹介した、篠塚隆さんの「英国王室と日本人」にもある日本の皇室の方々というのは、とりわけ、天皇陛下というのは、日本の象徴でありますから、この謙譲の美徳を継承してきたお方。時々、皇室を批判する方もおりますが、これはまあ、天に唾するようなもので、それは日本人に対して、自らに唾するようなものでありましょう。

 そろそろ、今日のまとめを。昨日、書くこと、そして、書いたものを他者の目に触れさせることの意味について、少し触れましたが、私はある時から、書く行為というのは、他者の共感を得るためのものなんだろうなと思うようになりました。人によっては、自己顕示力や承認欲求の現れじゃないのか、という方もおりますが、私が書いている文の調子は、文体と言ってもいいかもしれませんが、昔話を語るような調子のもので、町か村の公民館のような場所での講演会、坊主の法話を聴くような口調の話しの文体、だと思っております。

 所謂語り部の口調。昔話を聴いて育った熊のモンターニュでありますから、それが習いとなったのかもしれません。初心ということであれば、私の場合は、まさしくこの秋田の昔話を聴かせてくれた語り部の語りが私のオリジンにあります。初心というのは、我々は、それぞれがユニークは存在として生まれ、生きている訳ですが、オリジン、つまりは根っこがあるからその根っこのおかげでユニークで、個性的な訳です。無目的に、ただ共感を得るために私は書いている訳ではなくて、自分なりに、そのオリジンとしての根っこを忘れないために、そして、その根っこを現実の時間でどう活用したらいいのかを探るための思考として、日々書いているのです。ですから、人のルーツ探しに興味のない方にとっては、退屈な話になるでしょうね。

 私の長い春休みも、5月の連休までで、江戸川区の小学校、中学校での補習授業の講師としてのバイトが契約され、5月8日からは、平日は毎日学校に行っての授業です。今年度からは、江戸川区では、中学校は数学だけではなく、英語も教えないといけないことになりましたので、1時間働く時間が増えたわけです。勿論、その分バイト料は増えますが。江戸川区だけで授業時間が、週7時間(授業の前の準備、終わった後の片付けの時間も含めたら10時間前後か)。これに、中野区の塾での夜のバイトがあります。塾の講師の方は、昨年度は月、水の授業だけでしたが、金曜日もお願いされて、こちらは、授業時間だけで6時間。水曜日は、塾の管理者になっていて、その分沢山もらえますが、ご案内のように、管理者には不適な人間。

 役所を定年退職し、年金生活者であるモンターニュさんが、何故そんなに働かないといけないのかと素朴な疑問を持たれるかもしれませんが、これこそまさに、初心なんですね。私は小さい頃から書くことは苦手(国語が不得意)でしたが、でも、身体を使った教科は得意でした(体育、音楽等)。ですから、将来、歌手になろうとか、あるいは、役者になろうとか、スポーツ選手になろうとしたのは、あながち間違いではなかったのですが、結果として、外交官という役者になった訳です。しかし、外交官としての舞台での演技が終わって、年金生活者となって、では、年金生活者を演技するかという話ではなくて、人前で歌うとか、話すことが私のオリジン、つまりは根っこにありますから、その延長として、先生として、若い生徒さんの前で学びを語り、フランス語の先生としての演技をしている、あるいは、折々の言葉で、人生とはとか、幸せとはといったことをさも悟ったかのように語り、まるで一流のゴルファーで、そして陸上選手であるかのように演技をしながら、ああでもないこうでもないと言いながら、今を生きている、ただそれだけの人間なのであります。

 どうも失礼しました。

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