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モンターニュのつぶやき「教育と芸術の相関性について」 [令和3年5月21日]

[執筆日 : 令和3年5月21日]

 コロナ禍の影響に関係なく、亡くなる人は亡くなるというか、二枚目の田村正和さんが77歳で4月に亡くなっていたニュースに接し、そうか、イケメンや美女は、やはり神様の嫉妬をかってしまうのかなあと。田村さんは二枚目は二枚目でしたが、とても味がありましたね、お茶目で、芸では我道を征くというか、日本人の役柄も、西洋人の役柄も似合っていた方のように思います。まあ、あまり才能がありすぎるのも、特に天才と言われる人の人生を見ると、必ずしもその人の個人的な幸福とは結びつかないようなところもあって、それもあって、宗教やあるいは哲学があるのかもしれませんが。
 同期が私の日々のつぶやきのメールやゴルフの練習(週大体3回)、そしてランニング(ほぼ毎日6キロ強をインターバルトレーニング)といった活動に対して、よくそんなにエネルギーがあるねえとつぶやいてくるのですが、人には皆夫々の旬がありますし、たまたま今が私の場合そうなのかもしれません。仕事に使うエネルギーと、趣味などに使うエネルギーは質が違うとも言えますし。エネルギー保存の法則というのがありますが、個々人にもそれは案外当てはまるかもしれません。人間は自らのエネルギーを増幅することが出来るかどうか、その辺は分かりませんが、エネルギーがあるかないかは、肺活量にも顕れます。それと、繰り返し行うことをどれだけもっているかにもよるのではないかと。
 人生は一日一日が違った時間でもありますが、繰り返し出来る事をもっている人は幸せだと思うのですね。それと、4つの快適さを持っている人、快眠、快食、快便、そして心地よい会話。これだけで十分に幸せでしょう。でも、最後の会話は難しい。
 ちなみに、昨日から以前読んで、徒然でもご案内した本、向井敏さんの「机上の一群」(文藝春秋)を眺めておりましたが、「ボヴァリー夫人」の作者フロベールという人は「人生に耐えてゆくたった一つの方法は、あたかも果てしなき饗宴に連なるかのように、文学のなかで酔い痴れることにある」と言っていたようです。気持ちわかりますよね。私もかつて外交官をしていたころ、人生はまさに饗宴の連続で、これこそが私の人生だと思っていたのですが、それが今では幻、蜃気楼のように脳を駆け巡っている訳で、それ故に、プルーストの「失われた時を求めて」に未練はある、ということでしょう。
 で、知の巨人であったポール・ヴァレリーは「ボヴァリー夫人」を「田舎の中産階級の凡庸の凡俗に文体の記念碑を建立する退屈」と、なんとも手厳しい評価をしております。一方で、ペルーの作家マリオ・バルガス=リョサは、「果てしなき饗宴」において、ヴァレリーとはひと味違う次のような評価をしております。

「凡庸なーつまり一般的なー存在が、文学のなかで生命をもつためには、作家がある種の例外的性格をこれに与えなければならない。つまり、特権的で唯一の経験として、それが提示されなければならない。これこそが「ボヴァリー夫人」の注目すべき点であり、いかにも庶民的な夢と問題をかかえた俗っぽい人間たちが、彼らを創り出した小説の構造とエクリチュールのおかげで、月並みな人間として生きながらしかも並々ならぬ人間のような印象を与えるようになる。(中略)書くことはー彼の場合それは、性交と同じように、激しく完全に身を捧げつくすことだったーフロベールにとって、「性的饗宴」にほかならなかった。」

 作家は、平均以上に、いや相当に性欲が強い人が多いのではないかと思うのです(いや、何も私の場合を想像頂く必要はありませんので)。確か、作家の村上春樹さんはマラソンをしていると記憶しておりますが、書いて、走る、まあ、そういうエネルギーは高いのでしょう。作家ではビクトル・ユゴーもそういう人だったでしょうし、ゲーテも。芸術家は一般にそうしたエネルギーは高いと思います。昔習った語彙では、それを如何に「昇華」するかの違いはありますが。
 それはそれとして、平凡で凡庸な人間(庶民ですな)をして、何か特別な人間(選ばれた、特権階級的で、唯一性を持つ人)として表現するというのは、現代小説の手法にもなっていますし、それはフロベールを高く評価しないといけないでしょう。が、しかし、小説の中の物語を、現実に置き換え、凡庸なる私が特別な人間であるかのように意識するというのは、それは大きな錯誤、人生を謝ることですし、そこはやはり小説という虚構の物語を如何に味わうべきかという、別の課題がありますので。
 なお、定年してからやりたかった勉強では、仏文学もありましたが、大学院とかに通うには、少々経済的に苦しいという理由で断念はしましたが、定年後に勉強しようと思ったのは、人間に関することで、哲学、心理学、そして文学、語学(言語学)等がありました。どっちにしても、人生は独学ですから、学校に通って勉強するとしても、私淑できそうな先生がいる授業があったら案外無理しても通ったかもしれませんが、そういう先生が見当たらなかったというのが真実かもしれません。

 さて、西田幾多郎は、自ら教育学はまったくの門外漢ではあるがとしながらも、「教育学について」(昭和8年)において、彼が期待する教育のあり方を述べております。彼は、教育というのは、人間をして歴史的存在であることを意識させることが重要であるとし、時代時代にあった歴史的使命を構築するためのイデヤ(idea理念)が教育にもないといけない、働く人の足は大地に着いて、立っていなければならないとして、職業教育に関心があったように見受けられます。また、人格については、「真の人格というのは、抽象的・個人的自由にあるのではなくして、自己において絶対の他を見、絶対の他において自己を見るという所にあるのである、死によって生きるという所にある」と述べておりまして、今を生きている現在性としての自己と、過去、未来を貫く時間、乃至は神といった絶対的永遠の存在を、有限性の中の無限性、無限性の中の有限性という表現で、表現しております。

「教育学が人間というものを対象にする以上、如何にして人間を教育するかということは、我々の精神現象の法則を研究する心理学によらねばならぬであろう。そういう意味においては、人間は身体を有する以上、生理学というものも必要であろう。また人間を如何なる人間に教育すべきか。教育の目的という如きは倫理学による外ないであろう。しかし教育学は単に心理学でもなければ、生理学や乃至社会学やでもない。(中略)教育の理想は一般に人は如何に行為せなければならなぬかということではなくして、具体的な現実の人間でなければならぬと思う。教育学では如何なる行為が善であり如何なる行為が悪であるかということが問題となるのではなくして、如何に現実の人間を形成すべきかが問題となるのである。
(中略)アリストテレスは、「形而上学」の始において広義において知識と考えられるものを経験、技術、学問の3つに分けている。そして技術は学問よりも不完全なもの、経験は技術よりも不完全なものと考えている。技術というものを単にあるものを造るという意味に解するれば、技術というものは知識としては学問的知識と考えられるよりも不完全であり、またそれ自身の独自性を有たないということが出来る。(中略)教育ということも、私は一種の形成作用と考えることができると思う。彫刻家が彫像を造るが如く教育者は人間を形成するのである。形成するということはイデヤによって客観的にものを造ることである、イデヤ的なるものを実現することである。斯くいえば形成作用ということは主観的と考えられるかも知らぬが、真の形成作用というのは、単に主観的なるものを客観的に現すというのではなくして、客観的なるものをして自己自身を現さしめることである。彫刻家の頭の中の想像は真に彫像そのものではない。芸術的創作にあっては如何なる作品ができるかは、芸術家その人も知らない。そこには主客合一の創造作用というものがなければならない」

 教育が、彫像を造るが如きであるとは言えないでしょうし、ましてや特定の鋳型にはめ込んで、同じような人間を造るためのものではないとは思いますが、そうした面が無きにしもあらずが、これまでの教育であったとも言えます。芸術家と作品との間には、主客合一の創造作用がある一方で、教育は、教える側(先生)と教えられる側(生徒)にもそうした作用があってもよさそうですが、現在の教育は如何でしょうか。一人一人が芸術作品の如くに教育されるのが理想なのでしょうが、現状はなかなか難しいでしょうね。
 西田幾多郎は、このように教育学や芸術にも大変関心があったのですが、日本人と西洋人の世界観というか、認識における違いは美の世界においても見られるようで、彼の「書の美」は、哲学者が書いたらこうなるのかという一つの例として興味深いと思います。彼は、美には、客観的な対象を描くものと、主観的な感情を描くものがあるとし、絵画、彫刻は前者、音楽、建築は後者、しかし、書はそうした客観的な制約が少なく主観的な感情を描くものであるとしております。
 ちなみに、私も定年になったら、書道を再開しようと思っていたのですが、のんびりと書に親しむという経済的、時間的、精神的余裕もなく、再開しておりませんが、手元には、石川九揚「書に通ず」(新潮選書)、「選りぬき 一日一書」(新潮文庫)、原子朗「筆跡の文化史」(講談社学術文庫)があります。また、硯、墨、筆はありますので、始めようとすれば、明日からでも始められるのですが、書道は、ゴルフと同じで、実際に腕(腕)を使わないと駄目になってしまう芸術ではないかと思います。なお、ゴルフで、パターに難のある人は、要するにタッチが上手くない、感覚的能力に問題があるのですが、そのタッチを磨くのに最適なのが、書道。筆を上手く使えるようになると、パターも自然と上手になります。これは間違いありません、私が保証します。包丁を使うのもいいですし、繊細な身体の動きを必要とする道具を普段から使うのがゴルフの上達では欠かせないと思いますので、コロナ禍で暇している方は、パソコン、スマホは脇において、是非、書道で筆を、あるいは、料理で包丁を握られる時間を持たれることをお奨めします。
 なお、石川さんの「選りぬき 一日一書」の今日、5月21日の字は、明末清初の傅山の一筆書きの「翼」。コロナ禍で翼が役立たなくなっておりますが、皆様が早く飛翔できることを祈ります。今日はこの辺で、失礼を。

「美は主客の合一にあるのはいうまでもないが、芸術には客観的対象を写すということが主となっているものと、主観的感情の発現ということが主となっているものがある。絵画とか彫刻とかいうものは前者に属し、音楽という如きは後者に属するのである。建築の如きも感情の発露とはいい難いが、それが何らかの対象を写すというのではなく、一種のリズムを現すという点において、むしろ後者に属すると考うべきであろう。右の如く芸術を分類して見ると、書というものも何らの対象を模するというのではなく、全く自己の心持ちを表現するものとして、音楽や建築と同じく、全くリズムの美をあらわすものということができるであろう。その静的な形のリズムという点においては建築に似ているが、建築の如く実用に捉われたものではなく、全く自由なる生命のリズムの発現である。そういう点においては音楽に似ている。つまり建築と音楽との中間に位するとでも考うべきであろうか。「凝結せる音楽」とでもいうべきであろう
(中略)それで書の価値というものは、いわゆる技巧というよりも、多分にその人によるものではないかと思う。無論、如何なる芸術もその芸術家自身の人格の発現でないものはなかろう。しかし絵画や彫刻の如きはいうまでもなく、音楽の如きものであっても、客観的制約が多いと思う。然るに書に至っては、それが極めて少なく、筋肉感覚を通して、簡単なる線とか点とかより成る字形によって、自由に自己の生命の躍動を表現するのである。」西田幾多郎「続思索と体験『続思索と体験』以後」の「書の美」(昭和5年)

(了)

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