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モンターニュのつぶやき「ことばと思考の関係についての仮説」 [令和3年5月20日]

[執筆日 : 令和3年5月20日]

「バイリンガルになることにより、得ることができるのは、その外国語の母語話者と同じ認識そのものではなく、同じモノ、同じ事象を複数の認識の枠組みから捉えることが可能であるという認識なのである。自分の言語・文化、あるいは特定の言語・文化が世界の中心にあるのではなく、様々な言語のフィルターを通した様々な認識の枠組みが存在することを意識ことーそれが多言語に習熟することによりもたらされる、もっとも大きな思考の変容なのだと筆者は考える。」

 冒頭の文章は、言語が思考を決定するか否か、あるいは、異なる言語の話者が異なる思考をしているかを、心理学の研究も考慮して慶應義塾大学環境情報学部教授今井みつみ先生によって書かれた本「ことばと思考」(岩波新書)の終章にある文章ですが、私が仮に同じ内容の文章を書くとしたら、以下のようになります。

「二ヶ国語を、例えば日本語と英語を自由に使いこなせるようになると、母語が日本語の場合には、日本語を介して眼の前にある物や出来事を認識するだけではなく、英語とか、他の言語の認識の仕方も併せて複合的、複眼的に見ることが出来るようになります。つまり、日本語や日本文化が唯一無二の全てではないことを経験的に理解し、そして、それぞれの言語は独自の見方を可能にする装置が備わっていることをガッテンするーそれが物事をより広く、そして深く考えて理解する上で、色々な言語を学ぶことで得られる重要なことではないかと、私は思います。」

 勝手に、名著を書き直したりして、先生お怒りでしょうが、これは私が私の理解のために翻訳しただけの事ですので、誤解のないようにお願いします。ことばと思考という研究テーマは、即哲学的なテーマにもなるでしょうし、うかつに手を出してはいけないとは思いますが、どうも面白くて止まりません。今井先生の文章で翻訳が難しいのは、抽象的な語彙、認識、枠組み、変容、存在、それから抽象的ではありませんが、バイリンガル、フィルターがあります。バイリンガルは、何時からある語彙かはわかりませんが、カナダとか、公用語が2つある国では極普通のことばでしょうが、方言と標準語、例えば、秋田弁と日本語を話す人をバイリンガルとは言わないのでしょうが、両方を同レベルで使えることが必ずしも二重構造的に思考しているということではなさそうなので、注意が必要になります。
 フィルターは、コーヒーなどをカップに入れる場合に余計なものを通さない薄い濾過器ですが、今井先生は、フィルターを通すことで様々な枠組みを見出すと言っております。が、フィルターはあくまでも、外部からの異物を遮断する、あるいは反射させる物でしょうから、仮にエッセンスを抽出するという意味合いで使用するのであれば、抽出されたもの=枠組みになりますので、これが文脈上比喩として正しいかどうか、少し悩みます。ということで、抽象名詞に限らず、極普通の名詞ですら、ことばの使用は人それぞれなのであります。
 それから、題名にある「思考」ですが、これも難しい言葉です。思い・考えるという意味でしょうが、思うとは思い出すこと、考えるとは、字形から見ると、老とか、孝の字に似ています。昔中国では、考えるというのは、時間のこと、特に未来のこと、あるいは、親への愛とか、人間の徳に関してのテーマを対象として考えたのではないかと。

 ところで、英語学習が盛んな令和の時代、英語を勉強することが単に学業・研究、仕事・出世、そして経済的にメリットがあるだけでは、なんとも物足りないし、そもそも言語は実利的なことだけのためにある訳でもないでしょう。英語から見る思考法を学ぶのも面白いと思います。今井先生は本の中で断っていますが、ことばは言語languageとしての場合、または単語・語彙wordとしての2つの意味合いで場合分けして使用しており、また思考は認識(知るknow、悟るrealize、気づくrecoginize、知覚するperceive、解釈するconstrue、理解するappreciate等)に含意されるものとして扱っています。換言すれば、思考は認識するためのプロセスの一つとも言えるかもしれません。思考するは、英語ではthinkですが、熟考はmeditate、判断するはconsideration、憶測するは assume、信じるならbelieveがあります。ただ、思考するとはどういうことなのか、言語化された状態だけを指すのか、その辺はよく分からないので、この辺は課題ではあります。なお、この点で、フランス語には思考するの動詞として一般的なのがpenserですが、類語には、juger、raisonner、reflecir、speculer、mediter、voir、songer、rever、imaginer、se rappeler、se souvenir、などがあり、流石モンテーニュ、デカルト、パスカル等を生んだ国の言語です。
 思考は経験や知識を基に、灰色の脳細胞を働かせることでしょうが、哲学では知的な精神作用を意味するようで、ここで今度は知的の意味が分からなくなってしまいますが、どうも、言語というのは堂々巡りをする傾向があるようです。
 それはそれとして、私がフランスに最初に行って驚いたのは、太陽の色が日本では赤だったけれども、フランスは黄色だったこと。どちかの国民が色盲か色弱であるかという訳ではないのでしょうが、以前ご紹介したかとは思いますが、日本人の眼、そして耳は、自然現象の知覚において、他国民とは違いがあるようで、優れているか劣っているというのではなくて、どうも違うのは間違いないと思うのです。ですから、絵を描かせたら、その色使いは当然違うわけで、それ故に日本には日本画がある訳です。音では雅楽もしかりで、また臭いに対しての感覚だって多分違うでしょう。こうした違いを単に生物学的な違いと言えるかどうか、その辺は分かりませんが、ぬるま湯も日本人は大好きです。フランス語に「お湯」という単語がないのことが日本人には驚くし、または「浅い」という単語がないことも。日本語は概ね真ん中が中心で、そこから見た対極の語彙があるように思います(相対的)が、フランス語は絶対的な物があって成り立つ言葉が多いのではないかと(やはりキリスト教の影響ですかね)。

 秋田弁で育った私の思考が秋田弁に影響を受けているかといえば、イエスとも言えるしノオとも言えます。仮に受けているとしたら、秋田の人はみな私のような変な人間になってしまう訳で、そんなことはないはず。そもそも、秋田弁で私が幼い頃に思考していたとは思えないのです。確かに、小学校時代、学年ごとに語彙が難しくなる所謂標準語的日本語を習ってはいたでしょうが、思考していたという記憶はほとんどありません。私が言語で思考したなあと思うのは、小学校の低学年の時、テレビで、「子どもが川におやまって落ちて、亡くなった」というニュースを聞いた時。何で御免なさいと言って、川に落ちたのか、それがわからなかったのですが、謝るというのではなく、誤るだった訳ですが、この時、私の脳は異なるものでも発見したように考えたのでしょう。それから同時期に、「隣の生徒は私と同じようにものを考えているのか」と疑問を抱いたことと、野球をやっていて、キャッチャーだったので、ピッチャーにどんなボールを投げさせるかを考えたこと位。
 ことばを以て思考するというのは、私の経験からすれば、ほぼ無いに等しいのですが、人間というのは、考える時は、苦境から脱しようとあがいているとき、大体が悪いことをしようとしている時のようです(犯罪というのは、それなりの思考力がないと出来ないのは、ご案内の通り)。これが私の思考の概念なのですが、要するに思い出すということなんだと思いますね。思いついたことを忘れないように思い出すというか。考えるというのは、全て過去の記憶に依拠するものだと思うのです。では、先のことは考えないのかと言われると、先の予定として計画を建てることも、過去の経験と知識に基づいて行っているでしょう。数学だって、誰かが言っていたように、過去の記憶を掘り起こすことにあるとも言いますし。
 少なくとも私にとって、思考するというのは、思うと同意義、あるいは、思い出すこということで、自分の頭で考えることよりも、過去において使用していた言葉(概ねは全ての人が使っていることば)を状況に合わせて使っているだけのことではないかと。仮に独自の言葉を使うようになれば、それはもしかしたら、思考したことなのかもしれませんが、そういう人はそんなにはいないように思います。仮にいたら、その人の認識というか、意識が他の人とは異なっている証でしょうし、それがどうしてそうなるのかと言えば、人間の記憶の中にある、潜在下の古代から受け継がれてきている人類共通財産的記憶を思い出せる人とそうでない人の違いであって、そういう記憶を思い出せる人というのは、無限的自然を現時点において有限的に見ることが出来る人ではないかと思うのです。仮説ですが。 

 昔、息子が小学生の頃フランス語で苦労していたのですが、ある日突然出来るようになって、これは何も毎日息子が思考した結果ではなくて、過去の記憶を思い出すためのメカニズムが身体と連動して始動したためだと思うのですね。語学は体育系の人なら絶対上達すると思うのは、身体の機能と脳の記憶が連動するメカニズムが似ているからで、特にゴルフは脳のゲームと言いますが、基本は記憶を如何に呼び覚まして、今ある身体を如何に活用するかという意識と記憶の連携プレーではないかと思います。これも皆仮説ですが。
 なお、昨今、思考力を高める学習が学校での教育で重要であるとして、カリキュラムが思考育成型になるというような話を耳にしますが、思考力は、勉強で身につくものではないと思いますね。思考力を求める試験には役に立つかもしれませんが、翻って、人生で、思考力を磨いたから解決できた問題はあるでしょうか?あるかもしれませんが、思考力ではなくて、見通し力、判断力、選択力、決断力というものがなかったから、それが間違いだったから問題を解決できなかったのではないかと思うのですね、日本(人)の歴史を垣間見ると。イスラエルとガザの問題だってそうでしょう。思考力がある人が、結婚相手を間違うこともありますし。
 思考は切羽詰まった時に発揮される、火事場のクソ力のようなものだと思うのです。ですから、与えられた餌を食べる程度の勉強では、とてもとても思考力なんぞ、高まることはないし、人が生きる上で、一番大切なのは、決して思考力ではないということを、パスカルが「人間は考える葦」と逆説的に述べていることは、ご案内の通りです。今日はこの辺で失礼を。


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