『評伝 中勘助』の執筆を終えて(6)
・黒田小学校の光景
中勘助『逍遥』より
四十幾年も前のことだから記憶の誤りはあるかもしれない。私の通つてた小学校はかなり経済に苦しんでたらしい。オルガンの声がよく出ないのでをりをり先生達が素人療治をしてたけれど、私が学校を出るまでたうとう直らずじまひだつた。で、全校の生徒が一緒に歌ふ式日には普通に声の出る小さいオルガンを使ふのだつたが、それも怪我をしたところをさらしで巻いてあつた。晴の式日に繃帯をしたオルガンは随分私達の気を腐らせたものの、今となつてはそれも懐しい。狭つこい玄関の両側には貧弱な銃架があつて少しばかり小銃が列んでゐる。鉄砲といひたいが実は木銃で、銃剣もいづれ竹光だつたらう。奉迎奉送などの際にたしか最上級の生徒だけがそれを担いでいつて堵列(とれつ)するのであつた。それにはなにか規定でもあつたのか、それとも木銃の数が足らなかつたのかわからない。多分十五六人の男生が筒袖や袂(たもと)の着物に草履、たまに文明開化的なのが靴といふやうに、映画で見るエチオピアの近衛兵よりもまちまちないでたちで先生に引率されてゆく。とはいへ時世が時世でいづれも未来の英雄の卵、死しては護国の鬼となるぐらゐの意気込みであつたでもあらう。玄関を通りぬけると右てに日当りの悪い教員室がある。そこは呼びつけられて叱られでもする時のほか、はひることのできない禁制の場所で、放課時間に先生といふ半神が鉈豆ギセルで刻みタバコなど吸ひながら談笑してるところである。その時分の先生は大概和服で、代用教員も多く、殊にそんな人たちは俸給といふよりはタバコ代ぐらゐしかもらつてないらしかつたが、当然のことながら教育家であるとの自尊心をもつて至極真面目にやつてたらしい。一般に貧しいながら生活にどこかゆとりがあって、今の人間よりずっと愚鈍なかはり、渡世上手のまやかし者が少なかつた。恐らくいつどこの国でもさうであらうやうに私達弱者は先生にあだ名をつけたり陰口をきいたりして鬱憤をはらしてたけれど心の底ではやはり半神相応の敬意を払つてたであらう。
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