『評伝 中勘助』の執筆を終えて

●回想記
≪野尻湖散策≫ 平成23年(2011年)の記録
9月27日から信州松本に滞在中ですが、仕事があったりなかったりすかすかで、時間に余裕がありますので、信州の北部に向かい、野尻湖を見学してきました。松本から中央線の特急で長野市まで1時間。長野で信越線に乗り換えて黒姫駅まで約40分。駅前から野尻湖まで定期バスが出ていますが、本数が少なすぎて待ち時間が長すぎますので、タクシーに乗りました。10分ほどで野尻湖畔に到着。2000円でした。
 野尻湖畔に信濃町公民館があり、その前庭の一角に中勘助先生の詩碑が建ち、詩「ほほじろの聲」が刻まれています。

   ほほじろの聲
              中勘助
 ほほじろの聲きけば
 山里ぞなつかしき
 遠き昔になりぬ
 ひとり湖のほとりにさすらひて
 この鳥の歌をききしとき
 ああひとりなりき
 ひとりなり
 ひとりにてあらまし
 とこしへにひとりなるこそよけれ
 風ふきて松の花けぶるわが庵に
 頬白の歌をききつつ
 いざやわれはまどろまん
 ひとりにて

 中先生は若い日に二度にわたって野尻湖畔に逗留したことがあります。一度目は明治44年、二度目は翌明治45年です。野尻湖の中に弁天島という島がありますが、中先生は最初の逗留のとき、弁天島に籠って暮らしたりしました。二度目の逗留のとき、『銀の匙』の前篇を執筆し、中先生はその原稿をもって歩いて柏原という地区の郵便局に行き、夏目漱石先生のもとに送付しました。柏原はこのあたり一帯の中心で、黒姫駅の所在地も柏原ですが、ここは小林一茶の生地でもあります。
 信濃町公民館の庭には中先生の詩碑のほかにもうひとつ、清水基吉(しみずもとよし)という人の句碑があります。未知の人ですが、小説を書いたり句作をしたりした人のようで、昭和19年には『雁立(かりたち)』という作品で芥川賞を受けています。戦時中の最後の芥川賞受賞作品なのだそうです。戦後、鎌倉文学館の館長でもあったとは、句碑の隣に立つ看板に記されていた説明を読んで知りました。その清水さんは中先生の愛読者だったようで、句碑に刻まれた一句は、

  島守ハ露の旗振り味噌乞へり

というのです。「島守ハ」の「ハ」はなぜか片仮名で表記されています。
 「島守」というのは中先生のことで、初回の野尻湖逗留の際にひとり弁天島に籠って暮らしていたとき、みずから「島守」と称した故事を踏まえています。「露」は「露命をつなぐ」などというときの「露命」の「露」のことで、まるで露のようなはかない命というほどの意味になるのでしょうか。弁天島の島守には露の命をつなぐ食料がありませんので、島籠りに先立って池田精治さんという人と約束を交わし、食料が底をついたら旗を振って合図をすることになっていました。合図があったら池田さんが米や味噌を届けたのですが、池田さんにしてもいつ旗が振られるのかわからなかったでしょうし、四六時中。見張っているわけにもいきませんし、定めし旗振りの時間が決められていたのでしょう。
 野尻湖訪問は実ははじめてではなく、確かな記憶がないのですが、30年ほど前に訪れたことがあります。湖畔に安養寺というお寺があり、中先生は島籠りに先立ってひとまず安養寺に滞在したのですが、30年前には住職の藤木さんもお元気で、中先生のお手紙や著作などを見せていただきました。そのときはどうやって野尻湖畔にたどりついたものか、どうもはっきりと思い出せないのですが、やはりタクシーに乗ったのでしょう。湖畔から安養寺に向って歩いている30年前のぼくの姿のみ、なぜか脳裏に浮かびます。現在の安養寺は住職もいなくなり、お寺としての機能も失われ、親戚にあたるおばあさんがひとりで住んでいるということでした。
 現在の野尻湖畔は有力な観光地になっていて、旅館やレストランやお土産を売る店が軒を連ね、夏場などは大学生の合宿場にもなり、湖畔一周の道はマラソンの練習にも活用されているのだそうです。湖畔には国際村というのもあり、欧米系の人たちが夏をすごすための別荘が立ち並んでいます。貸自転車で湖畔周遊を試みましたが、平らな道はよしとして、すぐに急坂になりますので、一周は無理でした。弁天島に行くには遊覧船に乗ればいいのですが、到着したのが遅かったため、最後の便に間に合いませんでした。一度になんでもみなこなすのは不可能ですし、これから機会を見て何度も通いたいと思ったことでした。
 公民館の人としばらく話をしましたが、地元でももう中先生が話題になることはなく、ただ詩碑だけが往時をしのばせるというふうなことでした。この世は生きている者だけの世界のようでもありますが、亡くなった人は今を生きる人の回想の中に生きています。生きる場所は異なっていますが、それなら生きているのと同じことで、しかもいつまでも生きています。回想の力は学問や芸術の根源でもあります。
 中先生の評伝を書きたいと40年も前から思い続けてきましたが、中先生の足跡をたどろうとする調査研究はあまりにも大がかりになりすぎますし、何よりも中先生の人生の根底には深遠が広がっていて、どんなふうに描写したらよいのか、視点が定まりません。ですが、考えてみると人生の全体像を描くのはもともと無理難題なのかもしれませんし、いきなり大評伝を書くという考えをあらためて、ノートを書くのがよいのかもしれません。「中勘助ノート」を何冊も書き重ねていく中で、人生というものを物語る何事かがおのずと立ち上がってくるのを期待するというアイデアです。野尻湖畔を少時さまよいながら、そんなことを思いました。
 野尻湖到着はお昼すぎの4時ころでした。9月も末のことで日暮れが早く、5時半ころにはうす暗くなりました。タクシー乗り場と定期バスの停留所がいっしょになっている場所がありましたので、タクシーを頼みました。気さくなおばさんがいて、お茶とお茶菓子をお盆にのせてもってきてくれました。お茶を飲んでタクシーを待つという構えになったのですが、そこにバスの運転手がいて、たちまち定期バスに乗り込みました。どこに行くの、とおばさんが問うと、黒姫駅、と運転手さん。それならこのバスに乗ればよく、タクシーを待つことはなかったのにと思ったところ、おばさんも気づいたようで、うっかりしてた、すみませんねえ、と何度もわびました。いいですよ、別にかまいませんよと応じ、タクシーで黒姫駅に。行きは2000円だったのに、帰りはなぜか1500円でした。
 駅前の書店で「一茶記念館」が出しているパンフレットを購入し、年譜と句を眺めながら松本にもどりました。
 

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