『評伝 中勘助』の執筆を終えて(11)
●望岳荘訪問記
昭和53年(1978年)7月の記録
昭和53年の夏7月のことですが、信州長野県の木島平に向かい、中島まんさんをたずねたことがあります。中島さんは勘助先生が平塚海岸に住んでいたころにお手伝いさんをしていた人で、勘助先生の作品『しづかな流』に登場するのですが、名前は伏せられています。お手伝いさんがいたということしかわからなかったところ、あるとき、渡邊外喜三郎先生に教えられて中島まんさんというお名前を知ることができました。
渡邊先生は鹿児島大学の教授で、勘助先生の研究者として知られている方ですが、同時に「カンナ」という文芸同人誌を主宰されていました。ぼくも同人に加えていただいて、ときおりエッセイを投稿したりしていたのですが、そのうち渡邊先生の「はしばみの詩(うた)」という連載が始まりました。その内容というのが渡邊先生と中島さんとの間で交わされた往復書簡の紹介で、これで『しづかな流』のお手伝いさんのお名前がわかり、しかもご健在であることも判明したのですが、これにはまったく驚きました。
勘助先生の平塚時代は大正13年から昭和7年まで続きました。この間の日々の生活と思索の記録が『しづかな流』という作品になり、平塚時代の終りの年の昭和7年に岩波書店から刊行されました。
昭和53年の7月に信州に向かう用事ができましたので、その旨を渡邊先生に伝えたところ、先生が気をきかして、中島さんを訪ねたくなったらと、所在地を教えていただきました。中島さんはこの年に92歳という高齢になり、ご自宅を離れ、長野県下高井郡木島平村の望岳荘という老人ホームで余生を送っていました。所用先は信州白馬でしたが、そおこから望岳荘に向かうにはどうしたものかと案じられ、国鉄白馬駅で信州全図などを購入して行き方を考えました。
白馬村は長野県北安曇郡にあります。白馬駅から大糸線で松本に出て、松本から篠ノ井線で篠ノ井まで。そのまま信越本線に接続して長野に向かいました。長野で飯山線に乗り換えて一時間ほどで飯山に着きましたが、そのころはもう夕方の4時ころになっていました。飯山市は風光明媚な小都市で、曹洞宗系のお寺がたくさんありました。
この日は駅前旅館に泊まることにして、タクシーで望岳荘に向かったところ、千曲川をわたって20分ほどで着きました。中島さんはすぐにわかりました。案内していただいて中島さんに初対面の挨拶をしたところ、中島さんはなんだか怪訝な表情を浮かべましたが、鹿児島の渡邊先生に教えていただいてこうして訪ねてきたと申し上げると、破顔一笑して、たちまち打ち解けてしまいました。中島さんは手紙を書くのももどかしく、できることなら渡邊先生に直接お会いして、勘助先生にまつわるありとあらゆる思い出を話したくてたまらない気持だったのですが、そんな機会はあるまいとはじめからあきらめていました。そこに突然、渡邊先生の関係者のようなぼくが現れたので、うれしかったというのでした。
それから実に4時間ほども話がはずんだのですが、中島さんは別れ際に、渡邊先生にお目にかかることは絶対にありっこないと思っていたが、今日は渡邊先生に会ったのと同じことだと言い、ああうれしい、ああうれしいと何度も繰り返されました。
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