見出し画像

『評伝 中勘助』の執筆を終えて(5)


・漱石山房訪問
『漱石全集』第十三巻「日記及断片」より
大正3年(1914年)の記事

此漁師の娘といふ下女は奥歯に物のはさまつたやうに絶えず口中に風を入れてひーひーと鳴らす癖がある。始めは癖と思つたがあまり烈しいので、是は故意の所作だと考へた。或時私が外から帰ると彼女は他の下女に歯が痛いと云つてゐた。然し歯医者へ行く様子も何もなくただ気に喰はない音をさせる。無暗にひーひーと遣る。私が威圧的にそれをとめるのは訳はない。然し今迄の習慣として一つ私の気に触つた事をとめると屹度他の何等かの方法で又私の感情を害する事をする、さうしてそれを止せといふと又何か始めて人を不愉快にする。夫で私は已を得ないから向ふがあてつける通りに此方でもひーひーと同じく歯を鳴らし出した。
 私は或日相談があつて本郷の佐々木信綱氏の所迄行かなければならなかつた。すると電車の中で下女と同じやうに奥歯を鳴らすものがある。私も鳴らした。先方は夫で止めた。佐々木氏の家へ着いて一所に大塚の所へ行かなければならなくなつたので同氏の支度を待つてゐると又同じ声が隣室で聞こえた。私も同じ声を向ふと同じ数だけ出した。大塚のうちでは此不愉快の声を聞かずに済んだ。其前の晩に松根が来た。すると彼がまた同じ様に奥歯を鳴らした。歯が痛むのかと聞いたら痛むけれども歯医者へ行くひまがないと云つた。けれども彼は決して歯の痛さうな景色はなかつた。是は土曜である。佐々木へ行つたのは日曜である。中と安倍が水曜に来た。私は下女に何を持つて来て下さいと云つた。是はもとより不自然に聞える言葉遣ひである。然し下女の方で矛盾をやり、其矛盾を語れば好加減な言葉を云ひ。さうして屹度何か外の事で復讐をするから私もわざと私の性質に反したやうな事をやるのである。私が下女に何々して下さいと云ふや否や安倍はいきなり同じ様に歯を鳴らし出した。さうして夫を何遍もやるから君は歯が痛いかと聞いた。すると彼の返事は少し松根と違つてゐた。今度は痛いのではないけれどもなんだか変だと云つて又やつた。私は彼に向つて云つた。私のやうに年寄になるに(ママ)歯が長くなるのみか歯と歯の間がすいて何うしても其隙間に物の挟まつたのを空気の力で取るためにちうちう云はなくてはならない。御客様の前でも失礼な声をさせると云うつて、私の方でも歯を鳴らした。すると安倍の方でも已めない、いつ迄も不愉快な音を出すから私は止むを不已得其音はやめろと忠告した。安倍ははい已めますと答へた。然しもう一返やつていや是は失礼と云つてやめた。
 

いいなと思ったら応援しよう!