『評伝中勘助』覚書(36) 漱石先生

・安倍能成『我が生ひ立ち』より
《これは大学一年を終へた夏休だつたと思ふが、勧め上手の高浜さんはその後小宮、野上など漱石門の人々も、漱石先生自身をも下掛宝生(しもがかりほうしょう)に入れ、宝生先生が漱石山房へ出稽古にいつたこともあつた。
 野上豊一郎が漱石先生のところへ謡にゆかうといふので、始めて漱石山房を訪ふたのが、高等学校の一年の教場以来の初対面であつた。先生が三十八年以来「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を発表して、文名一時に挙つて以来、駒込の家から西片町十番地、それから牛込南町まで、家を換へること二回に及び、その間松根(東洋城-豊次郎)、小宮、鈴木(三重吉)は入りびたり、高浜虚子、坂本四方太、篠原温亭、野間真綱、野村伝四、寺田寅彦、野上豊一郎、中川芳太郎、橋口五葉、坂元雪鳥なども出入して居たさうだが、私は全く謡の縁であり、恐らく始めて漱石山房を野上の勧めで訪ふたのは、四十年の秋以後のことであつたらうし、早稲田南町の宅であつた。》

漱石先生が早稲田南町に移ったのは明治40年9月です。

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