結局それはサッカーだった
こんにちは、タカサカモトです。
今回は3月1日に発売した著書『東大8年生 自分時間の歩き方』の未収録ストーリーをひとつ掲載します(一部は本の内容と重複)。
具体的には、結果的に僕の人生の大きな部分を占めることになったサッカーとの関係について書いた話です。タイトルにもあるように、サッカー少年時代に経験した深い挫折と、その後の人生で経験したちょっとした「奇跡」について書きました。
お楽しみいただければ幸いです。
サッカーという名のウイルス
かつて一世を風靡し、今も世界各地で多くの人を魅了し続けている『キャプテン翼』という漫画がある。僕は小学校低学年の頃、アニメのテレビ放送を通じてこの名作と出会った。そのアニメのオープニングテーマにこんな歌詞があった。
「それにつけても俺たちゃなんなの
ボールひとつにキリキリ舞いさ」
今、自分の現在や過去を改めて見つめてみると、その少なくない部分がこの歌詞の通りの人生になっていることに気付かされる。
四角に区切られた空間内で人が二手に分かれてボールを蹴り合い、制限時間内に相手陣内奥のゴールと呼ばれる空間に沢山ボールを入れた方が勝つという、「何じゃそりゃ」と言いたくなるような「球蹴り遊び」のために、世界中で(全員ではないが)大人も子供も熱狂する。時代が時代だけに少々不謹慎な例えになってしまうかもしれないが、それは一種のウイルスのように人に感染し、感染した人は一定期間、下手したら生涯を通じて、熱狂する。もう何年もサッカーという現象を観察してきて、そうとしか例えられないようなところがある。そしてこの「ウイルス」に僕の人生もすっかりやられてしまっている。「僕が」でなく「僕の人生が」と書いた理由は、続きを読んでいただければ徐々に分かってくると思う。
始まりは、父に連れられて地元の少年チームに加入したことだった。はじめは年長の時、コートサイドで見学していたら誰かの思い切り蹴ったボールが運悪く僕の顔面に直撃して大泣きし、そのまま帰宅した。あんな怖い場所には二度と行かないと固く誓ったのを今でも覚えている。しかし数年が経ち、小学2年生になったある日、父が再び同じ場所に僕を連れて行って、結局チームに加入することになった。
ただ、この時はJリーグが開幕した年だったので、かつて大泣きした場所に戻る恐怖や不安はあったものの、サッカーそのものへの興味や熱は僕の中でもしっかり高まっていた。「Jリーグ開幕」という、今となってはノスタルジーすら感じさせるこの一大イベントを機に、この時は僕自身もすっかり「ウイルス」にやられてしまっていた。週3回あったチームの練習だけでなく、学校の休憩時間や、帰宅後の自由な時間でもひたすらボールを蹴って過ごしていたし、テレビ放送されていたJリーグの試合も夢中で観戦し、翌朝の新聞のスポーツ面にも必ず目を通し、時々買ってもらっていたサッカー雑誌は隅から隅まで読み込み、小学3年生で迎えた94年のW杯も自分なりに一生懸命観戦した。決勝戦でPKを外したロベルト・バッジオの後ろ姿、勝敗が決した後に子供のように天を仰いで泣くフランコ・バレージの姿は今もはっきと覚えているし、チャンピオンとして母国に凱旋したブラジル代表のパレイラ監督がワールドカップのトロフィーと共にアイルトン・セナのヘルメットを掲げた時の写真など、たくさんの記憶が今も鮮やかに脳裏に焼き付いている。
あの頃の自分は、誰がどう見ても生粋のサッカー小僧だった。プロ選手を目指す発想こそなかったものの、とにかくいつでもサッカーに夢中だった。しかし分からないもので、それから数年後、僕は小学校卒業と同時にサッカーをプレーすることをやめてしまう。
サッカーで負ったトラウマ
やめた表向きの理由は成長痛だった。足が痛くてプレーができないから、ということにした。でも実際には全然違っていた。本当に続けたければ成長痛があろうがサッカー部に所属し、痛みがなくなるのを待ちながらできるトレーニングをすればいい。でも、実際にはそうしなかった。
サッカーするのが怖い。これがやめた本当の理由だった。
残念ながら少年サッカーの現場においては珍しくも何ともない話かもしれないが、当時の状況を改めて冷静に振り返ると、指導者の言動をきっかけにイップスのような状態になってしまっていた、ということになる。
所属していた少年チームの監督は、試合中によく感情的に怒鳴る人だった。特に僕が一人だけ低学年でチームに加入した頃は、主力だった4-6年生の子達が散々怒鳴られるのをいつも目の当たりにしていた。程度を分かりやすく表現すると、ゴールを決めても思い切り怒鳴られるようなことがあるチームだと思ってもらえたらいい(ゴールに至る過程が監督の理想に反しているというのが理由だった)。実際に僕も経験した。あるいは試合後のミーティング中、思い出せないけど何らかの理由で怒りに駆られていた監督が力任せに蹴ったボールが、輪になって聞いていた選手の一人に直撃したこともあった。今「選手」と書いたが、要するに小学生の「児童」だ。しかも大抵、怒鳴られるのは特定の何人かに偏っていた。上の学年でよく怒鳴られていた子達の顔は今でも思い出せるし、僕の学年では間違いなく僕がその筆頭だった。
当時はとにかく自分に何か問題があるのだと思って、子供の未熟な頭で一生懸命考えたりもした。考えた結果、監督に限らず周囲の人間を苛立たせたり不快にさせたりするようなところは自分という人間の中に確かにあると子供ながらに感じたし、それは人として変えていくべきだと大いに反省もした。あるいは試合における自分のプレー選択が不正解ばかりで、そのせいで監督もチームメイトもうんざりしているのだろうと思っていた。
でも後になって、あるいは今こうしてこの文章を書いている大人の立場になって振り返ると、9歳から12歳の児童がそこまで精神的に自分を追い込むような状況そのものの不健全さに気が付かされる。確かにあの頃の自分を振り返ると、僕が指導者だったとしても自らを省みさせ、いくつかの勘違いに気付かせるようなことはすると思う。でも、試合中に感情のままに怒鳴ったり練習中に存在しないかのように扱ったりする必要は全くないし、方法は他にいくらでもあったと思う。
サッカーのプレーに関しても、最終的に激しい自己卑下が止まらない状態で6年生の終わりを迎えて卒業したけれど、これも冷静に考えれば、鳥取市という小さな田舎のレベルながら、少なくとも市の大会では決勝に進むチームだったし、フォワードで9番を着けていた僕は準決勝では一人で7点を取っていて、他の試合のゴール数も含めると、公式記録こそないもののおそらく得点王だった。自分にはプレーヤーとしての溢れる才能や輝かしい未来があったのに、とは今振り返っても全く思わないけれど、少なくともあんなに苦しく悲しい気持ちで、サッカーそのものからも卒業してしまうほど絶望的な状況ではなかったはずだ。というか、レベルや大会での成績はこの話の本質ではないので、実のところ何だっていい。ボールを蹴ること、サッカーをすることが純粋に楽しい、幸せだと最後まで感じながら過ごせなかったことこそが、少年時代の自分の最大の不幸だったように思う。その辺りがもう少し異なっていれば、少なくとも幸せにのびのびとサッカーというスポーツを楽しんで、その後もプレーを続けていた可能性はあったと思う。(今、当時の僕と同じような気持ちで過ごしている子が一人でも減ったらいいなと思って、少し詳しく過去のことを書かせてもらった)
卓球指導者として開花した中学時代
ちなみにこの話には興味深い続きがあって、その後中学に進んだ僕は、そうしたネガティブな思い込みやトラウマ的状態を抱えたままサッカー部への入部を「断念」し、卓球部に入った。そこでは同じ学年の仲間が1人しかおらず、その状態でひとつ下の学年に未経験の子ばかり大量に入部して、かつ顧問の先生は実績・実力共に十分ながら教務が忙しくて普段の練習には来られなかったので、先輩の引退と同時に部長になった僕が選手と指導者を兼ねる形で過ごすことになった。今思うと任せた顧問の先生の度量に驚かされるが、普段の練習内容はもちろん、団体戦の出場メンバーや試合のオーダーまで僕が決めていた。
この時、小学生時代のサッカークラブの監督の姿を思い出し、自然とその逆を追究するような形になった。図書館に通って卓球専門誌を読んだりコーチングの勉強もしたりして自分なりに工夫を重ねた結果、選手としては最後に個人で負けてしまったけれど、引退直後、自分が指導した後輩たちが地元の大会で団体・個人ともに圧倒的な強さで結果を出した。当時はただただ複雑な気持ちだったし、結局サッカーへの想いを消化も昇華もしきれないまま心の底に悲しみを抱えて3年間を過ごしていたのが実情だったけれど、卓球の大会中に見せていた指導者としての姿を他校の先生から高く評価されていたことなどを後で知り、やがて前向きに当時のことを捉え直すようになった。(15歳で選手より指導者として評価されるというのは、当時の自分にとってはある種の救いにこそなったものの、決して素直に手放しで喜べることではなかった)。
事実、振り返るとあの卓球部での経験が「人の個性を見極め、引き出す」という大人になってからの自分の仕事の軸に繋がる基礎になっているので、結果的には良い中学時代を過ごしたと、今なら胸を張って言える。過去は未来によって変えられることを学んだとも言える。当時は「この暗黒の中学時代を一生引きずってしまうんじゃないか」と暗澹たる気持ちで過ごしていたことを考えると、人生、前に進んで生きてみないと分からないものだなと思う。
サッカー少年にすらなれない高校時代
ちなみに高校では再びサッカーを始めようと思ったけれど、今度はまさかの両親からの猛反対で再び断念した。僕が再びサッカーで辛い思いをしないか、そして勉強と両立できるのかという2つの心配からだった。母は激情的かつ過干渉な性格で、一度対立が起きるとこれ以上ないくらい「厄介」なところがあったため、押し切りたい思いも抱きつつ限界を感じて泣く泣く諦めたのを覚えている。今、両親を恨んでいないからこそはっきり言えることだけど、過去のトラウマに向き合い正面から乗り越えようとした思春期の少年に対して、あれは親として最悪の対応だったと思う。サッカーがどうとか勉強がどうとかいう具体的な話でなく、トラウマの克服を通じた人としての回復・成長・成熟という観点で、前向きな挑戦の意志そのものを潰すような行為は避けるべきだった。ああいうことをしてしまうと、子供は深い内面的な自信を手に入れる大きな機会をひとつ、逃してしまう。親への信頼も損なわれる。同じ止めるにしても、不安や心配でなく信頼と希望を感じさせるアプローチを取れれば僕の受け取り方も大きく違っていただろうと思う。大人になり自分も親になった立場として、いつか我が子が人生の選択を行う際に同じ轍を踏まないように、戒めとして書き残しておく。
こうして中学時代と同様、高校でもサッカー部の練習風景を羨ましく横目で見守りながら、いちサッカーファンとして3年間を過ごした。
こうなると次のチャンスは大学入学時ということになるが、体育会サッカー部への入部やサッカーサークルへの入会を瞬間的に検討してはみたものの、結局その選択はしなかった。田舎から進学・上京した自分の最大の目的は「人を知り、世の中を知る」ことだという意識が強く、普段からできるだけ多くの人と出会うことを第一に考えた時に、サッカーを楽しむ時間を優先的に確保する精神的・時間的余裕は持てないと思ったのだ。
当時まだスマホは世に浸透しておらず携帯は専らガラケーで、テレビが主要メディアとして君臨していた最後の時期だったけれど、そのテレビを部屋に置かなかった僕は、結局サッカーを観ることからも自然と遠ざかっていった。
父との会話を繋いだガイナーレ鳥取の存在
そんな中、大学4年目に母の病気が発覚し、そこからちょうど1年の闘病生活を経て亡くなってしまった。歯を食いしばりながら最後まで必死に闘っていたが、克てなかった。当然だがこの時以降、父と会話する機会が相対的に増えることになる。
TVディレクターだった父は本来の性格としては決して寡黙というわけではなく、むしろかなり社交的な方だと思う。ただし現役で働いていた頃はとにかく仕事が忙しかったため、日常的にたくさん話したり一緒に時間を過ごしたという記憶は残念ながらあまりない。専業主婦ながら絵描きでもあった母があまりに個性的で激烈な性格だったこともあり、父の個性をあまりきちんと認識しないまま大きくなってしまったところがあった。父親が会社員として外で忙しく働き、母親は家事と子育てを一手に担う専業主婦という、当時の日本では典型的とされていた家庭環境の中で育ったので、その御多分に漏れず、良くも悪くも母との距離が近く、逆に父との間には多少の距離があったと言えるかもしれない。その上で性格的には僕が母親似、2つ下の妹が父親似みたいなところがあったので、僕と父ではちょっとした感覚が異なることも多く、たとえば父と妹が何となく互いの感覚を自然に共有しているように見えたのに比べ、僕と父ではお互いに相手を理解するのに苦しむところも多分にあったと思う。(とはいえ母とはお互いに似過ぎていて激しくぶつかってばかりいたので、似ていれば良いとも似ていないのが良いとも言えないなと思う)
そういうわけで、僕と父が2人で過ごす時間には、どうしてもある種のぎこちなさが漂っていた時期があったのだが、この微妙な距離感を徐々に自然で親密なものへと変えてくれたのが、これまた不思議なことにサッカーだった。
Jリーグ百年構想という素晴らしい理念のお陰もあってか、47都道府県の中で断トツの人口最少自治体である鳥取県にも、まさかのJクラブ誕生を目指す動きが生まれていた。元々は米子市の教員チームが母体だったSC鳥取が、名称新たに「ガイナーレ鳥取」として、本格的なJリーグ参入を目指す戦いを行っていたのだ。僕も地元の新聞でその経過をずっと追いながら、ワクワクした気持ちでその先の未来を想像していた。そのガイナーレ鳥取のホームゲームを父の勤務先だった地元テレビ局がたびたび中継しており、その際にディレクターを務めていたのが、もともと高校サッカーの中継などで経験と実績を積んでいた父だったのだ。
母亡き後、学生生活も後半に入り、真剣に卒業後の進路のことも考え始めていた僕の中に、いわゆる社会人として大先輩でもある父ともっと会話し、何かを学ぼうという意識も少なからず芽生えていたことは間違いない。ただそれ以上に、まず父という人間を純粋にもっとちゃんと知ろう、そのためにももっと色々会話しようという気持ちがまず先にあった。
そうした状況にあって、この「ガイナーレ鳥取」なる地元サッカークラブは、今思うと救世主的存在だったと言える。なにせ、地元のスポーツチームというただでさえ分かりやすい「共通の話題」であるだけでなく、そこに父が仕事で携わっており、かつその中継した番組、つまり彼が仕事で作ったものを僕もテレビ越しに観ることができるのだ。ごはんを食べながら、お茶を飲みながら、あるいは温泉に通いながら、あの頃はとにかく沢山ガイナーレのことを話した記憶がある。
チームの勝敗や試合の内容についても話したし、Jリーグクラブ誕生が地元にもたらす経済含めた諸々のポジティブな可能性についても話したし、そうした流れの中で、試合中継のディレクターという彼の仕事についても色々と尋ねて教えてもらった(但しテレビ局に就職する気持ちはゼロだった)。その結果、それまで漠然としか知らなかった(つまり実のところ何も知らなかった)彼の仕事について初めて具体的に認識することになった。中継車の中で複数のカメラから届く複数の映像を同時に目で追って、その都度テレビ画面に映す映像をボタン操作で決定しながら、同時に各スタッフに指示を出して、欲しい映像やテロップを要求したり、他にも放送席の音声を聴きながら何ちゃらとか、要するに刻一刻と変化する試合の状況を複眼的に追いかけながら、ひとつの映像として仕上げて視聴者に届ける仕事だということが分かった。まさか自分の父親が、あのクレイジーで激情的な母によって事あるごとに散々ボロクソに言われていた父が、まさかそんな高度で複雑そうな仕事を平然とやってのけていただなんて想像もしたことがなかったので、もちろんそれを知って彼を深く尊敬することになるのだけれど、その前にまず、ただただ衝撃だった。「え、あなたそんな難しいこと普通にやってたんですか?!」という純粋な驚きと、「失礼を承知で言葉を選ばずに言えば、ぶっちゃけもっと愚鈍で無個性でアホな父親だと思ってました、マジですんません」という反省の気持ちだ。この時を境にようやく、色んな意味で個性的過ぎる母のせいでその存在感が霞んでいただけで、実は父も十分に個性的な人間であったことを認識できるようになっていった。
その意味で、地元に誕生したJリーグクラブの存在というものに、僕は今でも深く感謝している。ここに紹介した出来事は、少なくとも僕の人生においてはひとつの奇跡だった。
サッカーは奇跡を起こす
サッカーというのは、たかが90分の球蹴り合戦でありながら、こうして時に奇跡を起こす。きっと今日も世界各地で、大小さまざまな形で。
究極的かつ最も偉大な奇跡としては、戦争が止まった例すらある。昨年その生涯を閉じた世界サッカー史上最大の伝説的選手、ペレを擁するサントスFCが親善試合でアフリカのコンゴを訪ねた時のことだ。天才ペレのプレー見たさに、当時同国を悩ませていた内戦が一時停戦状態になったという。この出来事に関してペレ自身が「これこそサッカーの真の勝利と言えるだろう」と語っているが、仰る通りだと思う。サッカーに関してこれまでに触れてきたあらゆるコメントの中で、この一言は最も深く僕の心に刻まれている。
一方で国によってはサッカーの試合が原因で観客同士が喧嘩してしまい、少なくない死者が出ることすらある。たとえばブラジルで強豪同士の大事な試合をスタジアムに観に行くと、騎馬警官隊が睨みを利かせる中、シールドを持った機動隊が作った人の壁の隙間から入場することもある。はっきり言って、滅茶苦茶だ。つくづく不思議で仕様がないけれど、奇跡も悪夢も生み出す謎の「感染力」がこのスポーツにはある。このように、戦争の停止から誰かの突然の死という、あり得ない程の振れ幅の中で、大小様々なたくさんの奇跡や悲喜劇がサッカーの周りには生み出される。
きっとチームの数だけ、スタジアムの数だけ、サポーターの数だけ、全国各地、世界各地に似たような奇跡が転がっていることと思う。文字通りの意味で、サッカーは人を救いもするし、殺しもする。誤解を恐れずに言えば、一種「神」のような影響力を人の人生に対して持つことがある。
前述したように、僕の人生の起きた最初のサッカーの奇跡は、地元プロチームの存在を通じて、サッカーが父との関係の触媒になってくれたことだった。見方を変えると、上京と共に自然とサッカーから離れていった僕の人生は、地元クラブと父親というきっかけを通じて、再びサッカーに巻き込まれてしまったとも言える。こうして再びサッカーを観て、サッカーを語り、サッカーに心や人生を動かされる世界に戻された僕は、やがて大学卒業を目前にした初夏の日、ネイマールという一人のサッカー選手の存在を知ったことによって、一気に人生を変えられていくことになる。この時を境に奇跡のような出会いが重なって、僕はいよいよ本格的にサッカーの世界に足を踏み入れ、公私共にサッカーと深く関わって生活する現在に至る道を歩み始めることになったのだった。
以上です!
この話の続き、すなわちネイマールのドリブルに衝撃を受けてブラジル移住を志し、大学卒業と同時に現地に渡った話や、そこで実際にネイマールと会った時の話、やがて日本人選手のサポートを行う現在の仕事を始めるに至った話、遠藤航選手や原口元気選手など実際の選手たちとのエピソードなど、ご興味のある方は是非、それらを詳しく書いた拙著『東大8年生 自分時間の歩き方』をお手に取ってみて下さい。宣伝になってしまって恐縮ですが、ここまでお読み下さった方でしたらきっとお楽しみいただけると思いますので、よろしければGWのお供に是非!
それではまた。