がんこじじい
「血圧が高くなってきてるねえ…、ちょっと薬をね、強いものに変えてみようと思うのだけど。」
「いや…高くはないよ。今までのクスリでいいわ。ちょっと横になっておったら下がるんだわ。だから血圧は高くないんだよ。」
本日は、老いた父親の月に一度の内科受診の日である。
このところ、週に三回通っているデイサービスの入浴前の血圧チェックで引っかかることが多いらしく、スタッフさんから一度主治医の先生に相談してみてくださいとバイタルチェック表のコピーを頂いたのは先週のことだ。血圧が160を超えると入浴できないと決まっているため、毎回ベッドで横になって158に下げてから入っていると聞いている。
老いた父親は狭くて段差が激しい自宅のふろ場を使うことができないため、入浴をデイサービスで行うことになっており、血圧が下がらないのは死活問題だ。なんとしても対応策を取っておきたいところなのだが、本人がどうにもこうにも非協力的というか…聞き入れようとしない。
「じゃあ…今ちょっとはかってみようか。」
つい先ほどはかって、178の87。
「いや、今はかったでいいわ。横になるのもえらい(キツイの意味)でね。薬はねえ、飲みたくないんだわ。強いのはねえ、体に悪いで。」
「うん…じゃあ、すぐに下がってるかどうか、確認させてもらうね?」
今はかって、178の88…、すぐに下がっては、いない。
「あのね、勝さんは血圧たかいんだよ。数字がね、出ているの。このままだと、お風呂にも入れなくなってしまうので、薬を変えたほうがいいと思う。もうじき夏だから下がる可能性もあるけれど・・・」
「じゃあ、とりあえず今回はええわ。夏になってもさがらなんだら考えるで。」
父親はもともと神経質なところがあり、細かいマイルールありきの人間だ。自分の納得できない状況下において他人の言葉に従う事を良しとしない、信念を曲げないタイプの人である。ただでさえ気難しいのに、高齢になってさらに融通が利かなくなったというか…医者の言うことでさえ聞き入れないので、非常に困る。人当たりは穏やかで、性格的には温厚そのものなのだけど…頑固さが非常に厄介なのだ。言葉はわりとまろいのだが、拒否したい事はきっぱりと受け入れない態勢を貫いている。
「ハイ、じゃあ、今日はもう良いよ。ええとね、娘さんとお話があるから、待合室でちょっと待っててね?」
「僕も一緒に聞くよ、自分の体の事だでねえ。」
おそらく、自分の知らぬところでおかしな薬を処方されてしまわぬよう、目を光らせておきたいのだな、たぶん。父親は立ち上がろうともせず、まだまだ先生の話を聞いていく気満々だ。
「勝さんの体の事じゃないよ、デイの事をちょっと聞くだけだからね?」
「じゃあ、勝さん、あっちの席に行きましょう、今ねえ、アジサイがきれいに咲いてるんですよ!私が世話してるの、見て下さる?」
「じゃあ見んとイカンなあ…、ええよ、一人で行けるで。」
この病院は小さな町の診療所で、通院する患者さんは高齢者が多い。なんというか、老人の扱いに非常に慣れている看護師さんが多くて、大変心強い。
「フフ、私がお見送りしたいんですよ!!」
「そうかい?ありがとう。」
看護師さんに付き添われて大人しく診察室を出て行く父親は、気のよさそうなおじいちゃんなのだけどねえ……。
「すみません、なんかこう、薬はいやだって意固地になってるというか、テレビとかめちゃめちゃ見てて、健康番組ばかり見てるから余計な情報が入っちゃって…。」
老いてなお記憶力と理解力に衰えが見られない父親は、少々言葉を返すのに時間がかかるようになったものの、私レベルのへっぽこ人間を完璧に言い負かすような論破力がある。生きているのは自分なのだから、他人の意見に従う気はないという信念が貫かれており、生半可な気持ちでは到底立ち向かう事ができない。
がんばれば若さゆえのごり押し応戦もできるのだけれど、あまり興奮させて血管がプツンといっても困るので強く言えないのだな……。激しく怒りをぶちまけるタイプでないので、こちらも穏やかに対応せざるを得ないというか……。
「とりあえず来月まで様子を見ましょうか。薬はね、今飲んでるのは一番弱い奴だから替えた方が良いとおもいます。あんまり拒否するようだったら、デイさんのほうに薬を渡して、入浴前に飲ませてもらうとか考えましょう。もし調子悪そうだったら早めに来てくださいね。」
「わかりました、デイさんに伝えておきます。ありがとうございました。」
頭を下げ下げ診察室を出て待合室に行くと、父親がこちらを伺っている。アジサイはもう見終わったんだろうか……。
「なんだったかな?俺は薬は飲まんでええよ。自分の事は自分が一番わかっとるでなあ。」
自分抜きで何かを語られたという事が気になるのだろうなあ。やけにこちらの顔色をうかがうような物言いで視線を向けているその表情は、弱弱しいというか、乏しいというか……。高齢者特有の表情筋の衰えというか、感情の枯渇が垣間見える。
「うん、お父さんが調子悪そうだったら病院に連れて来てって話だったよ。そんなに心配しなくても大丈夫だからね?」
「そおかい?」
不安が消えたからか、いくぶん穏やかな表情を取り戻した父親は、ぼんやりと窓の外に目を向けた。薬を変えずに済んでホッとしているのか、紫色の花を懸命に鑑賞している。
年をとると、頑固になるものだとは、思う。
長年生きてきた結果として自分に蓄積された知識や経験、学びなどを信じたい気持ちはもちろん、何も知らない他人が自分の生き方に口出しをする事を嫌うものは多いのだ。若い頃は従ってなんぼの部分もあるだろうが、老いて人に従うというのは、プライド的な問題もあって難しくなっているようにも感じる。
思えば義父も晩年、ずいぶん頑固ジジイになってしまって、対応が大変だった。
義父はとても愉快な人で、豪快な人で、軽快な人で、爽快な人だった。私が落ち込もうがやらかそうが間違えようが失敗しようが、いつでもゲラゲラと笑い飛ばすような人で、たまに喧嘩っ早さから声を荒げる事もあったが、基本いつでも笑っているようなお調子者であり、こちらの言葉を聞いておどけるような一面もあった。
ところが、糖尿病が悪化して透析を受けるようになったあたりから、旦那と衝突することが多くなり、私も間に入ったりしたのだけれど、正に取りつく島なしという状態で…かなり体力を消耗した。
どれだけ旦那が注意しても、怒っても、怒鳴っても、我慢するのはいやだと言い張り、好物のイチゴは毎日のように食べていたし、ビールも欠かさず飲んでいた。結局好きなように好きなものを豪快に飲み食いし続け、70を前にして旅立ってしまったのだ。
父親は、豪快でもなければユーモアにあふれるタイプでもない。だがしかし、義父と同じがんこおやじ臭を感じずにはいられない。
完全に性格は違うけれども……、朝は必ず柴犬色に焼き上げた食パンにマーガリンを塗って四分割したものでなければならないし、昼はきっちり10:45にうどんを作るよう部屋を訪ねてくるし、携帯にメールが入れば都度削除を求めてくるし、お風呂バッグの中身の位置が変わっていると理由を聞かれるし、毎日丁寧に髭剃りをしたあと爪にやすりをかけているし、どれだけ毛髪が無くなっても二ヶ月に一度第三金曜日の午前に必ず理髪店に行くし、枕の位置がずれていると次の日の朝苦言を申し立てるし、毎日キッチリ四粒びわのど飴を舐めるし、毎日首に巻きつけているタオルの替えが入っている引き出しの中をのぞいては、「端っこがきっちり重なっていないよ、しっかりと畳みかたに気を配りなさい」と叱られてしまうのだ。日用品から嗜好品、お菓子の置き方にボールペンの位置まで、きっちりマイルール、マイベストポジションが設定されていて、同じものが毎日同じ場所にないと、非常にめんどくさい事になってしまう。
義父はすぐに言い訳をするタイプだったのでわりと口論や討論が頻繁で、その後和解という流れに発展する事もごく稀にあったのだが、父親は口論することはなく、きっぱりと自分の言いたいことを伝えてそれでおしまいになってしまう。タイプは違うが、他人の言葉を一切聞こうとしないところはそっくりで…笑ってしまうなあ。
「なんだ!えらく値段が高いじゃないか!!どういうことだ!!」
父親とともにアジサイをぼんやりと眺めていたら、何やら受付のあたりで大きな声が響いた。何事かと思って目を向けると、父親と同じ年頃のおじいさんが声を荒げていらっしゃる…。
「これはねえ、薬の種類が変わったからですよ、新しい薬にするってさっき説明したでしょう、ここのね…」
「なんだ!!言ってくれんと分からんなあ!!高いならやめる!!!」
「あのね、森田さん!!やめるなら、元の薬を二倍飲まないといけなくなって値段が倍になるって先生が説明したでしょう?」
「なんだ、それよりは安いのか!!説明が足りんわ、元のまんまの方が良いな!!」
「森田さんの薬は変えた方が良いんですよ、とりあえず今月はこれで様子を見させてくださいね?多分ね、来月数値が変わってくると思うから、ね?」
「よく効く薬になったんだろうな!!しょうがねえなあ!!」
派手な会話はしているが、わりと融通の利くタイプの老人のようだ。お連れの方はいないから、一人暮らしなのかな?看護師さんや先生まで出動し、ひとしきり受付で騒いで、豪快に出口から退出して行かれた…。
「岩本さん、お待たせしました!」
「あ、はい。」
診療代を支払い、薬の処方箋を頂いて、病院を出る。
「ああ言う困った人は、イカンなあ…。」
駐車場に向かう途中で、父親が何やら憤慨した様子で口を開いた。どうやら、先ほどの横柄な老人について、些か不満を感じたらしい。
穏やかが信条であるらしい父親は、デイでも声を荒げる老人を見るたびにずいぶん心を痛めているみたいなんだよね……。わりとひどい目に遭ったスタッフさんを日常的に慰めたりとかしているらしくて、非常に人気を集めているというか、皆さんからかわいがっていただいていたりするのだ。……ありがたいと思う一方で、わりとこう、思うところが、あったりしないでもないというか。
「まあねえ、お一人で来てたし、耳が遠いのかもよ。最後は納得してたし、受付の人も狼狽えてなかったから、いつもあんな感じなんじゃないのかな?」
「年を取ると我儘になるでイカンなあ。もう少し気遣いができんと、嫌われものになってしまうよ。デイでもさあ……。」
薬局で薬を頂き、車に乗って帰る道すがら、ずいぶんいろいろと老人についての持論を述べていらっしゃる父親。話すスピードも、移動する速度もずいぶん衰えたものの、耳は良く聞こえるし話すことは実に達者で……わりとためになるような名言も飛び出したりするのだなあ。ぼんやり聞いてるとお叱りの言葉もとんで来るし……。こういう会話は、あと…どれくらいできるんだろうなあと…なんだか、ちょっと、切ない気持ちになる。
「もうじきに11:30だなあ、ご飯の時間には、間に合いそうかい。食事はさあ、決まった時間に食べんと胃腸の具合がおかしくなってしまうんだわ。俺も年を取ったで、おかしなことをするとすぐに不調が出てきてしまってさあ。」
……まさか、あなたも相当我儘ですよと言う訳にも、いかないので。
「うん、帰ったらすぐにうどんの準備するからね。」
ご機嫌な様子で窓の外を見ながら物申す父親の姿をルールミラー越しに確認しつつ……声をかけたのだった。
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