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無邪気


「はい、春子さんこんにちは。」
「こんにちは。」

「今から、質問をしますね。ちょっと失礼な事も聞くけど、怒らないで下さいね。」
「ハイハイ。」

「では、お名前を教えてください。」
「岩本はるこ。」

「今日は、何月何日ですか?」
「1月28日。」

「何曜日ですか?」
「水曜日。」

「お誕生日を教えてください。」
「昭和20年1月28日。」

「今の季節はわかりますか?」
「春。」

「ご飯は作りますか。」
「作ります。」

「なにを作りますか。」
「……おいしいやつ。」

「買い物は行きますか。」
「行きます。」

「ひとりで?」
「この人が行きます。」

「この人は誰ですか。」
「手伝いの人?」

「今から絵を見てもらうので、覚えて下さいね……、はい、今みた絵にあったものを3つ教えてください。」
「なんだったかな、ここまで出てるけど…何て言う名前か…、かくやつと、切る…。」

「昨日のごはんを覚えてますか。」
「おいしいやつ、なんだったかな、ここまで出てるけど…。」

大切なお客様が、お帰りになった。

……1ヶ月もすれば、便りが届くことだろう。

見知らぬ来訪者などなかなかないので、少しテンションのあがっている母親が、部屋のなかをうろうろしている。

……お茶でもいれるか。

「わたしが誰だかわかりますか?」
「だれだったかな?」

「さっきまで誰が来ていたかわかりますか?」
「誰か来ていたかな?」

「何か思い出は有りますか?」
「楽しい事は、忘れました。」

「何か嫌な出来事は覚えてますか。」
「覚えていないです。」

「意地悪をしたことはありますか。」
「してないと思う。」

「子供の大切なものを壊したことは有りますか。」
「子供はいません。」

「家族を大切にしなかったことを覚えてますか。」
「家族はいませんね。」

「何が好きなんですか。」
「なんでも。」

「わたし、おなかがすいたみたい。」
「食べるものがほしいです。」
「外がキレイだから、見たい。」
「歌のテレビを見たいの。」

「じゃあ、おやつを食べながら歌番組を見ましょう。」

 私が準備した卵ボーロをつまみながら、教育番組の歌に夢中になっている母親の姿は、まるで少女のようだ。

 一時期、あれほど娘である私を攻撃し、猛威をふるっていた癖に、今はすっかり人が変わってしまった。
 老いて、記憶を忘れ始めた頃から、母親はずいぶん穏やかになった。
 生きてきたすべての時代において…不満しか得られなかった、母親。

 不満を忘れてしまえば、ただの人でしかなかった。

 あの、私を苦しめ続けた攻撃性は、過去の出来事に対する怒りあってのものだったのだ。

 無邪気に、無防備に、感情をさらけ出している、母親。

 今まで、幸せになってたまるかと、過去の恨みを忘れてたまるかと、憎しみと憤怒を撒き散らし続けていた。
 私は、仕事を辞め、家族を捨て、自分の感情を手放し、ただひたすらに母親の怒りを受け止めてきた。

 さんざん怒りをぶつけられてきた私は、無邪気な感情を投げられて、正直…困惑している。

 憎しみをぶつけられたなら、憎む事もできるのに。
 怒りをぶつけられたなら、腹をたてる事もできるのに。

 無邪気に、微笑まれたら。

 私の中の、憎しみが。
 私の中の、怒りが。
 私の中の、恨みが。
 私の中の、諦めが。
 私の中の、悲しみが。

 行き場をなくした己の感情が、ドロリドロリと渦を巻き、言い様のない不快感となり私を襲う。

 母親に、笑顔を返せない私は、子供として失格だ。
 無邪気に笑顔を振り撒く子供に、笑顔を返せない私は、大人として失格だ。

 どこか寂しそうな笑顔で、童謡を口ずさむ、無邪気な少女を目の前にして。

 私は、何も、言えず。

 ただ、無表情で、自分のスマホをいじり続けることしか、……できない。


大人になりたいものだ…。


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