靴下
「…あの、これ、お父様がずっと持っていらして」
「……靴下?あ、これ、母のですね」
父親の上着のポケットから、母親の靴下が出てきた。
……どうやら、洗濯をした時に紛れ込んでいたようだ。
母親が靴下が無くなったと騒いでいたのは、一ヶ月以上も前のことだ。……一ヶ月以上も父親は、母親の靴下を隠し持っていたらしい。
そういえば、ここ最近、上着のポケットにずっと…手を入れていた気もする。
……見つかって取り上げられないよう、気を使っていたのかもしれない。
ただの、手持無沙汰で、玩て遊んでいただけなのか。
なにか、思うところがあって、握りしめていたのか。
母親の靴下を持ち続けていた理由とは、いったい……?
「・・・さあ?」
「なんか、入っとったんだわ」
「俺のでは、ないな」
「別に・・・欲しいわけでは」
ずいぶんボンヤリするようになった父親に理由を聞いてみるも、回答らしいものは返ってこなかった。
……もともと、父親と母親は、ほとんど口をきかない夫婦だった。
愛情など、微塵も存在していない夫婦なのだと思っていた。
親の言う事を聞いて、見合いをして。
好きでもない、好きになるはずもない相手と、結婚をして。
毎日規則正しく働いて、休みの日は一人で出かけた父親。
毎日規則正しく家事をして、極力父親と話さないよう努めた母親。
お互い妥協せず、すり寄る事もなく。
お互い我関せず、知ろうともせず。
50年以上、大きないざこざを一切起こさずに暮らしてきた。
ただ同居し続けただけの、関係性。
……モノ言わぬ靴下を撫でながら、父親は、おそらく。
文句ひとつ言わずに家事をしていた時代の母親を、思い出していたのではないか。
黙って夕食を出し、黙って洗濯済みの服を用意していた母親の姿を、思い出していたのではないか。
年老いて、明らかに弱体化した父親を見て…母親はここぞとばかりに、口を開いた。
今まで口を噤んできた思い。
今まで溜めにため込んできた不満。
今まで一切父親に見せてこなかった怒り。
今まで胸の内にしまい込んできたすべての感情。
一方的に攻撃的な言葉を吐くようになった、母親。
ただただ暴言を聞き流すことに努めた、父親。
……父親は、老いて、母親との距離を縮めようとしていたように思う。
だからこそ、耳を覆いたくなるような言葉を聞いても…一切反論をしなかったのだろう。
しかし、距離は縮まる事はなかった。
何をしても、何もしなくても。
何を言っても、何も言わなくても。
母親は、父親が目に入るたびに、感情を爆発させた。
極力、同じ空間に居合わせないように。
極力、姿を確認できないように。
周りが頭を使って、ようやくそれなりの生活が送れるような状況下…。
何もできないからこそ、母親の靴下を握りしめたのだろう。
何もできなかったからこそ、母親の靴下を握りしめる事しかできなかったのだろう。
母親の靴下を、デイサービスで握りしめ続けていた……父親。
……少なくとも。
どれほどきれいに洗濯されていても、父親の衣類を一切触ろうとしない母親よりは。
わかり合いたいと思う、気持ちが。
愛情の仄かな欠片のような、ものが。
父親には、あるように……感じたのだった。