にぎりめし
じいちゃんはずいぶん寡黙な人だった。
いくぶん高めの、ややハスキーな声は年に数度聞けたらいい方だった。
…騒がしい嫁と、騒がしい娘三人に囲まれていたからかもしれない。
そういえばじいちゃんの妹も、かなり口数の多い人だった。
私はというと、口うるさい母親の子とは思えないくらい口数が少なかった。今にして思えば、隔世遺伝だったのだろう。
私は、口数の少ないじいちゃんに…少々恐怖感を覚えていた。
何を考えているのかわからない。
何も言わない沈黙が怖い。
常に思ったことを躊躇することなく口に出している母親とは違う恐ろしさがあった。
…母親の突き刺さるような否定の言葉の乱打とは違う、静の圧力。
不満をためてるんじゃないのか、今憤怒の感情が渦巻いているんじゃないか…。
自分が感情を溜め込む性格なので、余計に心配が募ってしまい、さらに不安を呼ぶ。
極力じいちゃんの部屋には近寄らず、距離を取っていた。
……小学二年生の夏休み。
朝から両親とばあちゃんは地域の清掃活動に出かけてしまっていて、私とじいちゃんの二人だけが家にいた。
その日は出校日で、だまってじいちゃんとはす向かいにテーブルについて、朝飯を食べようとテーブルについたのだが。
「あっ。」
朝ご飯を見て思い出した。
弁当を持ってくるよう言われていたことを。
出校日、午後からサマースクールに参加することになっていたのだ。
母親には、夏休みに入る前にサマースクールで弁当がいる事を伝えていた。
いつもだったら、弁当がある日はテーブルの上に用意してあるはずなのだが見当たらない。
もしかしたら…先にかばんの中に入れてくれたのかもしれない。
期待を胸に、出校日の準備のしてあるカバンを確認するも、提出物しか入っていない。
うっかりものの母親は、弁当の用意の事をすっかり忘れてしまっていたのだった。
…どうしよう。
今自分の食べている朝ご飯を持っていけば、どうにかなるだろうか。
でも、お弁当箱がどこにあるのかわからない。
私の焦りには全く気付かず、じいちゃんがだまって味噌汁を私に差し出した。
私は、だまっていつものように味噌汁を受け取った。
…弁当を、用意しなければならない。
みそ汁は…持って行くことはできない。
茶碗の白いご飯を、茶碗ごとカバンに入れた。
「なにをしている。」
久しぶりに聞いた、じいちゃんの声。
「今日弁当がいる。」
会話をしたのも、いつぶりなのかわからない。
じいちゃんは、カバンに入れた私の茶碗を黙って取り出して机の上に戻し、キッチンへと消えた。
怒られたのかもしれない、そう思った私は、ご飯を食べることもできずにただ見つめていた。
時間は刻々と過ぎてゆく。
…あと15分ほどで、私は登校しなければならない。
みそ汁は持っていけないから、飲んでおこう。
口を付けたみそ汁はぬるくなっていたので、いつもよりスムーズに飲み干すことができた。
「持ってけ。」
空になったお椀をテーブルの上に置いた時、じいちゃんから少しよれた小さめの紙袋を渡された。
…重みを感じた。
中を見ると、新聞紙に包まれたなにかと、缶のお茶が一本。
私は黙って受け取ると、ご飯を食べて、登校した。
昼、紙袋の中の新聞紙を開いてみると、ラップに包まれた丸いご飯が二つ入っていた。
「なにそれ!にぎりめしじゃん!!」
じいちゃんのくれた弁当を見て、隣の男子が声をあげた。
…そうだな、どう見ても、昔話のにぎりめしだ。
握り飯は母親の作るおにぎりとは違い、ずいぶんしょっぱくて、しっかり握ってあって、中に沢庵が入っていた。
缶のお茶は、飲んだことのない味で少し戸惑ったものの、残すわけにはいかないのですべて飲み干した。
隣の男子が新聞紙を欲しがったのであげると、紙鉄砲を作ってひとしきり遊んだ後、しっかり返却されてしまった。
「ちょっとー!今日お弁当あるなら朝起きた時に言ってくれないと―!!」
夕方帰宅すると、さっそく母親のお小言が飛んできた。
弁当持ちであることは、前もって言っておくだけではなく、持って行く日の朝に伝えておかなければいけなかったらしい。
母親に頼みごとをする際の注意事項が、一つ、増えた。
私は黙ってじいちゃんのくれた弁当の袋を差し出した。
「もういらないから捨てといて。ああ、あと買い物行ってきてよ、おつりは白い硬貨以外貰っていいからさあ。ああ、一円は持ってっていいよ、ええとね買うもんはこの紙に書いてある、急いでね!!」
財布と買い物袋とメモ書きを渡され、玄関に向かうとじいちゃんに出くわした。
…じいちゃんは、何も言わない。
…私も、何も言わない。
「じいちゃんなんであの袋使ったの―?!あれ葬式のやつじゃん!もうちょっとさあ、選ぶってことをさあ…」
騒がしくじいちゃんに一方的に話しかける母親の言葉を背中に受けながら、買い物に出かけたのだ。
この一件以降も、私とじいちゃんはほとんど言葉をかわすことなく暮らし続けた。
……最後にかわした言葉すら、思い出せないというのに。
「あ、今日のはにぎりめしだね!!」
今でもたまに、じいちゃんのにぎりめしを作ってしまう私がいる。
……塩を多めにしてしっかり握った、真ん丸のにぎりめし。
「中身は唐揚げにしてね!!あとね、ツナマヨも!!っていうか普通の海苔にぎりも欲しいよ!!」
自分の好みを躊躇することなく伝えてくる、娘。
何も言わずに私の手元を見つめている息子には、じいちゃんの血筋を感じないでもない。
…息子の好みは、中身に何も入っていないやつだったな。
ぎゅ、ぎゅと、何も入っていない握り飯を握って皿の上に置くと…息子がにこっと笑ってこちらを、見上げた。
……何も言わずとも、伝わるものはあるのかも、知れない。
私は沢庵が、大好きだった。
じいちゃんのにぎりめしに入っていたのは、沢庵だった。
……ずいぶん昔の、ずいぶん色あせた、思い出。
語られなかった愛情の欠片を少しばかり感じながら…私は大ぶりの、にぎりめしを、握った。