
癒し
私と父親には、あまり接点がなかった。
朝早くに出社する父親。
帰宅後自分の部屋に篭る父親。
休みの日は朝からサウナに行く父親。
学校行事に父親が来たことはほとんどない。
長期休みに父親と出かけたことはほとんどない。
困ったことがあっても父親に頼んだことがない。
毎日晩御飯を一緒に食べるだけの、希薄な関係だった。
日常において、ほとんど会話をすることがなかった。
実家を出たのは22の頃だった。
その日でさえ、言葉一つ、交わさなかった。
家庭を持つことになったと報告した日も、サウナに行っていた。
孫が生まれた日も、いつも通り仕事に行っていた。
ほとんど会話をすることがないまま、父親は老いた。
定年退職した父親は、自分の部屋でテレビを見る生活をするようになったらしい。
6:00、11:00、17:00にきっちり食事をとる生活をするようになったらしい。
二日に一度、30分ほど散歩に出かける生活をするようになったらしい。
家事は一切しないらしい。
一度もしたことがないので、できるはずがないと母親が決め付けて、やらせなかったらしい。
決まった時間になると黙って食卓につき、食事が提供されるのを待つらしい。
食事を食べ終わると黙って食卓を立ち、自分の部屋に戻るらしい。
やがて、父親はさらに老いた。
手足が震え、一人で立つのが難しくなり。
散歩に行くだけの体力がなくなり。
ほとんど会話をしてこなかった私が、介護をすることになった。
私が用意したものを食べ、私が準備した服に着替えるようになった。
週に三度、デイに通うようになった。
週に三度、買い物に連れて行くようになった。
デイに通うようになったからか、父親との会話が増えた。
「今日は囲碁をやったよ」
「今日は近所を散歩したよ」
「今日はエアコンが効いていて寒かったよ」
買い物に連れて行くようになったからか、父親との会話が増えた。
「こしあんのやつがええなあ」
「これが好きなんだわ」
「どっちがうまいかなあ?」
「ミントの飴がええんだわ」
父親とほとんど触れ合ってこなかった私には、いろんなことが…新鮮だ。
父親の人となり。
父親の遠慮。
父親のこだわり。
父親の気遣い。
父親のユーモア。
父親の知識。
人生の終盤にして、勢いよく流れ込んできた、父親像。
その激流に、…戸惑いながら、見守りながら、受け止めながら。
どこか他人事で、ただただ淡々と…日常を過ごす。
父親は、身の回りのことはもちろん、お金の管理もすべて私に任せている。
私に何かを買い与えるようなことはできない。
私を労ってお小遣いを渡すようなことはできない。
「肩が痛いと言っていただろう、この薬を塗ると良いんじゃないかい」
「皮膚がかゆいと言っていただろう、この薬を塗ると良いんじゃないかい」
「頭が痛いと言っていただろう、この薬を飲むと良いんじゃないかい」
「お菓子がひとつ余ったから、食べてくれないかい」
「テレビで面白い小説特集をやっていたから、メモをさあ・・・」
「それで充分だよ」
「いいのかい?」
「たすかるなあ」
「ありがとう」
何も持たない父親が差し出すのは、処方された薬とおやつの残り、読みにくい文字と、穏やかな言葉。
急速に培われることになった、父娘の、関係性。
不安はある。
心配もある。
……けれど。
私が、父親に返す言葉は。
「大丈夫だよ」
「よかったねえ」
「なんとかなるよ」
「ありがとう」
父親とよく似た、穏やかな言葉。
…なんだ、お父さんと私、そっくりじゃない?
父親とのつながりを感じて、不意に頬が緩んだ。
「今日はうまいパンが食べたいなあ」
「じゃあ、焼き立てパンのお店でイートインしようか、おいしいコーヒーも飲めるよ」
「いいのかい」
父親と過ごすことで、自分が癒されている。
父親を甘やかすことで、自分を癒している。
父親に喜んでもらえると、自分が癒されていく。
あと、何年続くかわからない、父親との穏やかな日々。
私は、自分を癒すために。
貪欲であろうと、決めている。
いいなと思ったら応援しよう!
