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希薄


朝七時、新聞が玄関ドアの郵便受けに投函される音で、俺は目を覚ます。

老いて柔軟性を失った体に鞭打ち、ベッドから起き上がって玄関へと向かう。
手すりを擦りながら、段差のなくなった廊下を進み、突き当りにある郵便受けに手をのばす。

郵便受けのふたを開けるためには、つまみを手元に引かなければならない。

老いた俺の目では、郵便受けのつまみの場所を確認するのが難しい。今度息子が来たときに、つまみの部分に色を塗ってもらおう、…そう思ったのはこれで何回目だろうか。

新聞を取り出した俺は、薄暗い廊下を再び進んで、ベッドのある部屋ではなく、リビングに向かった。

二人掛けのリビングテーブルには、椅子が二脚ある。
かつて共に暮らした、妻の座っていた椅子には新聞が積まれている。

俺は、今届いたばかりの新聞を、広げることもせずに椅子に積んだ。
老いて目が悪くなってしまった俺には、新聞を読むことができないのである。

俺にとって新聞とは、読むために取っているものでは、ない。

新聞は、俺の命綱なのだ。
毎朝配達される新聞は、俺が生存していることを知らせるための、重要な役割を持っている。

もし、この新聞が、次の日の朝、取り込まれていなければ。
俺が新聞を取りに行くことができない状況に陥っていると、新聞配達員は気付くはずなのだ。

俺は、独居老人だ。
2LDKのマンションに一人で住んでいる、孤独な84歳の男。

会社人間だった俺に友はなく、会話をするのは妻だけだった。
共に暮らしていた妻は、八年前に亡くなった。
以来、会話のない毎日を、長く過ごしている。

一人息子はここから二時間離れた場所で、家庭を持っている。
息子は同居をすすめてくれたが、俺はそれを断った。
俺は、息子の家族に迷惑をかけるつもりは、ない。

一人でも生きていける、たまに手伝いを頼めるか、そう頼み込んだのは、妻の葬式の時だ。

週に二度、痛む体に鞭打って、一階にあるコンビニに行き、パンを買い込んでいる。パンは賞味期限も長いし、二三日期限を過ぎたところで腐ることもない。よぼよぼしてはいるが、体は健康で病院には通っていない。

月に一度、息子が顔を出してくれている。
ゴミを片付け、日用品をチェックし、不要な物の処分と必要な物の補充を一日かけてやってくれている。

他人が家に入るのは非常にストレスが溜まるので、俺は一人で暮らしたいと願った。人付き合いの苦手な俺のために、息子は、ヘルパーいらずの生活を用意してくれているのだ。

息子には、世話になりっぱなしで申し訳ないと思っている。

「なにかおかしなところがあったら、すぐに電話するんだよ、いいね。」
「おう、ありがとな。」

日曜、息子がやってきて、日用品の補充をしてくれた。
風呂も掃除をしてくれたし、出しに行くことのできなくなったゴミもすべて持ち帰ってくれた。

「小遣い、持って行くか。」
「何言ってるの、そんな気遣いはいいから、そろそろ同居してくれよ、ここに来るのも大変なんだからさ。」

息子は、俺の金を受け取ることなく、自宅へと戻って行った。


翌朝、俺はいつもの様に新聞配達の音で目を覚ました。

老いて柔軟性を失った体に鞭打ち、ベッドから起き上がって玄関へと向かう。

ところが、どうした事か。
手すりをつかむ右手がに力が、入らない。

何か、体に問題が起きているのではないか、そんなことを思ったまま、一歩、二歩と、足を引きずって、前に進んだ。

郵便受けの、つまみを引っ張ろうと、頭を下げた時。

ガガ、ガションッ!!

郵便受けのふたが開いて、届いたばかりの新聞が、落ちるのを、見ながら。

バランスを崩した俺は…そのまま、玄関に、突っ伏してしまった。

出しっ放しの、スニーカーやサンダル、長靴がクッションになって、衝撃こそなかったものの、起き上がることが、出来ない。

体中の力が抜けて、どうすることも、出来ない。


朝七時、新聞が玄関ドアの郵便受けに投函される音で、俺は、目を、覚ました。

バサッ!!!

俺の上に、今朝の新聞が、落ちてきた。

体は相変わらず動かすことができず、なすすべが、ない。


朝七時、新聞が、玄関ドアの郵便受けに、投函される音で、俺は、目を、覚まし、た。

バサッ!!!

俺の上に、今朝の新聞が、落ちてきた。

体は相変わらず動かすことができず、なすすべが、ない。


朝七時、新聞が…玄関ドアの、郵便受けに…、投函、される、音で…俺は、目を、覚まし…た。

ザ、バサ、がさっ!!!

俺の上に、今朝の新聞が、落ちてこない。

今日は、雨が降っているようだ。

新聞はビニール袋に包まれているので、郵便受けの中に落ちることなく、刺さったままになっているようだ。

体は相変わらず動かすことができず、なすすべが、ない。

明日の朝、今日の新聞がそのままになっていることに気づいた配達員が、俺の危機を知ってくれる可能性に、期待する。


朝…七時、新聞が…玄関、ドアの…、郵便受け、に…、投函、される、音で…、俺は、目を…、覚ま、し、た。

ガッ、バ、バサバサッ!!!

俺の上に、今朝の新聞と、ビニールに入った昨日の新聞が、落ちてきた。

新聞配達員は、俺の危機に気が付かないようだ。

体は相変わらず動かすことができず、なすすべが、ない。


命綱だと信じて取り続けていた新聞であったが、どうやらそれは俺の一方的な願望でしかなかったようだ。

新聞配達員は、ただただ新聞を配達するという任務を忠実にこなしていくだけだった。

入ったままになっている新聞を見ても、何も思わずに…次の日の新聞を押し込んでしまうのだ。


人というのは、こんなにも…希薄になってしまったという事か。


俺の惨状に全く気付かず、新聞配達員は去ってゆく。
俺を一瞥することなく、新聞配達員は去ってゆく。


人というものは、皆、他人には無頓着なのだ。


立ち尽くす俺を誰一人、気にすることなく…通り過ぎてゆく。


人というものは、皆、無頓着なのだ。


俺の息子でさえ、立ち尽くす俺を、気にすることなく…通り過ぎてゆく。


俺も、いつしか無頓着になってしまったようだ。


俺の荷物が、全て部屋から持ち出されても、なんとも思わなくなってしまった。
俺の家が、すっからかんになってしまっても、なんとも思わなくなってしまった。
俺の家に、見ず知らずの家族が住み始めても、なんとも思わなくなってしまった。


なんだか、全てがどうでもよくなってしまったな。


……もう、生きていても、意味がないな。

……なんだ、もう、俺は。


この世に何の未練もなくなった俺は、崩されてゆくマンションをながめながら、空高く、昇っていった。


色んな意味で、薄くならないよう心がけています。


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たかさば
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