茜色
茜という名を持つ私は、昔から夕焼けがあまり好きではなかった。
赤は、とても色鮮やかで、目立つ色。
その明るさは、人々の目を惹きつけるというのに。
茜色は、少し暗い、淀んだ色のイメージがあるから。
……いつから嫌いになったのかと、思い出して、みる。
あれは。
中学校の、美術部の、先輩が、たしか。
―――茜色って、汚い色なんだね。
人並外れたデッサン力の持ち主だった先輩が、……尊敬してやまない、憧れの先輩が、私の名を持つ色を、酷評したのだった。
あの、たった一言、二秒ほどの時間が、私をずっと、苦しめる。
先輩は、もう私のそばにいないというのに。
何気ない言葉が、一生残る。
その怖さを知っている私は、無口になった。
……いつか、私も。
先輩のように、誰かの心に瑕疵を残すようなことを、言ってしまうかもしれない。
囚われ続けた、茜色。
私の名を持つ、夕焼けの色。
茜色の空で検索をすると、美しい情景が、たくさん、たくさんパソコンに出てくるけれど。
―――茜色って、汚い色なんだね。
たった一人の、あの言葉が。
私を、卑屈にさせる。
普通に毎日暮らしていても、時折ふと出てきてしまう、この、感情。
……私はずっと、捕らわれ続けてしまうのだろう。
「おかあさん。みて。」
保育園の帰り、歩道橋を渡る私と娘の目に、夕焼けが見える。
ああ、嫌いな、汚い色だ。
「オレンジいろと、あかいろと、まざって、すごくきれい。」
娘のクレヨンは、赤と、ピンクと、オレンジの減りがとても速い。
お気に入りの色なのだろう。先週、新しいものを買ったばかりだ。
「あのいろは、どうやってだしたらいいのかな?」
少し芸術家肌の娘は、このところスケッチブックに、絵を描くことにハマっている。……この、汚い色を、娘は描こうとしているのか。
「そうだね、赤と、オレンジと、黄色に、紫…全部混ぜたら、汚い色になるから、それで完成?」
「きたないって、いわないで!!」
しまった。
卑屈な自分の、卑屈な一言が。
娘の心を、傷つけてしまったかも。
「おかあさん! いろは、ぜんぶきれいなの!! あやまって!!!」
めちゃくちゃ、怒られた。
「ご、ごめんなさい。」
娘は、傷つくどころか、怒りを堂々と私にぶつけてきた。
……パワフルだな。
誰に似たんだろう。
家に帰るなり、娘はスケッチブックを広げて、さっきの夕焼けを手に入れようとしている。私は、夕食の準備をしながら、そっと娘のスケッチブックを、のぞく。
ああ、赤と、オレンジと、黄色に、紫。
紫色を強く引き過ぎて、おかしなことになっている。
そもそも、赤とオレンジが、派手過ぎる。
黄色は、あの薄汚い茜色の空には、ない色だ。
夢中になって、色を引いているけれど、きっとあなたは、あの空にたどり着けない。
一生懸命、色を重ねている、娘を見ながら、そんなことを、思った。
五月十日、母の日。
旦那がケーキを買ってきた。
母の日の、ケーキ。
一輪の、カーネーションを、添えて。
小さいながらも、母の日のパーティーを、開いてくれるらしい。
娘が、丸めた一枚の画用紙を、差し出した。
……去年は、かわいい、私の顔を、かいてくれたんだよね。
「おかあさん、いつもありがとう。」
「おかあさん、おつかれ。」
「ありがとう。」
そっと、絵を、広げる。
こ れ は
あの日見た、夕焼けの色が……、私の手で、広げられている。
何度も何度も、塗り重ねられた、鮮やかな、色。
鮮やかな色に、塗り重ねられた、濃い、色。
すべてのクレヨンの色を、塗りこめて、一枚の、夕焼けにしてある。
「ゆうやけのいろって、おかあさんのなまえのいろだって、おとうさんがおしえてくれたから、がんばったの。すごく、きれいにかけたでしょ?」
「茜色って、言うんだよ! ね!!」
「ねえねえ! クレヨン、またなくなっちゃったから、かっていい?」
茜色は、こんなにも。
……こんなにも、きれいな色を、していたんだ。
涙が、零れる。
突然泣き出した私を、旦那と娘が、どうしたことかと、あわてて慰める。
今、抜けたんだ、抜けたんだよ。
私の心に、ずっと刺さっていた、大きな、楔が。
楔の抜けた、その穴に、私の涙がしみて、痛い。
けれど、その傷は、これから必ず、癒えていくはず。
……先輩は。
あの時、私に、楔を打ち込んだ先輩は。
今頃、人の、親になっているだろうか。
親になっても、誰かの心に楔を打ち込むようなことを、言っているのだろうか。
もう交わらない世界にいるであろう、先輩の姿。
……その姿は、遠い、遠い姿になった。
ずいぶん長い間、囚われ続けてきた私の心は、娘が華麗に、解き放ってくれた。
あの日から、ずいぶん経った……今。
毎日の夕日を、楽しみにしている自分がいる。
娘は今も、空の絵を描き続けている。
アトリエには、いくつもの空があふれ……、整頓が追い付かないほどだ。
乱雑に置かれた、たくさんのキャンバスの中に、あの日のクレヨンのイラストが紛れ込んでいる。
あの日の色が、変わらないように、写真にし、コピーを取り、何枚も何枚も、複写した。
意外とクレヨンは退色せずに、あの日のままの色を保っている。
額に入った、一枚の夕焼け。
茜色の、美しさを知った、夕焼け。
茜という名を持つ私の、一番好きな、夕焼け。
茜という名を持って、本当に、よかった。
時刻は夕方、6:00を回った。
今日も、私は、美しい茜色の空を見に行くために、お気に入りの靴を履いて……歩道橋へと、向かった。
こちら動画もございます