小説 男岩鬼になりたくて6

「ねえねえ、大江くんってなんで勉強もできるの?」
 クラスメイトの花城由美子が屈託のない笑顔で唐突に話しかけてきた。
「んっ……」
 喉を鳴らすように一瞬、顔を少しだけ上げたが無視した。
「休み時間なのに本読みながらボールを触ってるなんて、なんか変わってる」
 語尾を上げて言い終わると、スタスタと教室から出て行った。
 はぁ、それを言いたかっただけ? なんかよくわからん女だな。まあ、いい。少し気が散ったのを整えようとすると、
「おい、蒼。なんだよ、また女かよ」
 同じクラスの慶太と具志堅がニヤニヤしながら覆い被さるように言う。
「またってなんだよ」
「いやいやいや、メンバー入りの大江蒼くんは、もはやスター候補生だからな」
 時間潰しのために茶化されるのはごめんだ。
「……」
「おい、無視かよ。偉うなったもんだな」
 今度は挑発か。その手には乗らない。
「なあ、ところであの女、なんて言ってきたんだ?」
 具志堅が牛のような臭い息をハアハア吹きかけながら言う。
「別になんも言ってねよ」
「あん? 何も言ってねえことねえだろ。ああ? なんか隠してやがるな。ヤッタのか?」
 短絡的な考えだからバカは困る。そんだから体育会系は筋肉バカっていわれてしまうのだ。
「別に隠してなんかねえよ」
「蒼、てめえ、付き合ってるな。ぜってーそうだ」
 本気とも冗談ともわからないこの発言に俺はこれ以上抵抗する気がなかった。
「蒼が花城と付き合っているとはなぁ。前々から怪しいとは思ってはいたんだけど、まさかなぁ」
 自分自身で感心しているようだ。いいよな、おめでたい奴は。バカは単純で幸せだ。熟考することがなく、ただ感覚だけで話している。むしろ羨ましいと思う。だからって見下してはいない。ただ自分が一番という自負を持たないと甲子園に行けないと思っている。過剰な自意識を悟られず、ただ寡黙で仏頂面というイメージで見られればいい。
「なあ、今日ムツを学校で見たぞ。入学して1カ月になるけど、今まで学校で見たことがなかったもんなぁ。やっぱ、先輩たちの言う通り、ムツって本当に授業やらないんだな」
 具志堅が大発見をしたかのように言う。
 保健体育教師で野球部監督の秦政典ことムツは、自分の受け持ちの授業だというのに自習という名目で、グラウンドでサッカー、体育館でバレーを勝手にやらせるだけ。その間は監督室に籠って読書をしているという噂だ。仮にも公立校の教師であるのに、堂々たる授業放棄。もはやメチャクチャというより、破綻している。それでも沖縄実業野球部を全国レベルに押し上げた手腕によって誰も何も言えないでいる。
 そんな暴君とも言えるムツから認められ、1年生でメンバー入り。しかし、その代償として先輩、コーチから一番殴られる回数が多い。嫉妬や羨望もあるだろうけど、おまえらにこの地獄はまだ耐えられねえだろうよ。だから、少しは自由にさせてくれよ、と心の内で思っていた。
 高校で、こんなにも世の中の無情さを知るとは夢にも思わなかった。所詮、小学校、中学校はまだまだオコちゃまに過ぎないわ。1年夏にベンチ入りメンバーに選ばれた俺は、練習後の儀間コーチからの愛のムチという名の暴力を受け、そして先輩からのシゴキという名のシバキに耐えながら、梅雨が明け夏を迎えたが、夏を感じ取る余裕なんかない。なんとか五体満足でいることだけに集中し、夏の県大会を迎えることができた。こんなところで潰れるわけにはいかない。
 沖縄実業は5年連続夏の甲子園出場真っただ中で、3つ上の代は甲子園ベスト4という成績を残した。沖縄で甲子園ベスト4になったのは20年振り。
 中学3年だった俺はこの夏のことをしっかり覚えている。この年は、正月に半袖で過ごせるほどの暖冬から始まり、梅雨時期になると局地的な集中豪雨と長雨。沖縄では集中豪雨はさほど珍しく、いわゆる熱帯地域のスコールのようなものだ。ただ沖縄の梅雨といっても一日中雨が降ることはほとんどない。雨が降っていると思ったら、すぐ晴れ間が覗き、やったぁーと喜んでいるとまた雨がザザーッと降ってくるの繰り返し。うつろいやすい天気は、まるで県民の心と同じようだ。
 そして6月下旬に梅雨明けしてしたかと思うと、記録的な猛暑が襲った。ただでさえ皮膚を突き刺さる太陽光線が、この年は皮膚を突き破るような痛さと同時にコゲ臭ささえ感じた。ジリジリとすべてを焦がし、陽炎が立ちこめる。石垣、宮古 地方では干ばつの被害が相次ぐほど、すべて焼き尽くすようなギラギラとした暑さで不快よりも息苦しさでしんどかった。
 ボーイズの大会も終わり、引退となった俺は解放気分となり、8月前半はテレビで甲子園観戦を食い入るように観ていた。一番入りたい高校が甲子園に出ているのだから夢中になってテレビを観るのは当然だろう。ただでさえ沖縄では甲子園人気が凄まじいのに、ベスト4ともなれば盆と正月がいっぺんに来た感じで、えらいこっちゃ、えらいこっちゃの騒ぎではない。甲子園大会中に沖縄代表の試合があれば平日であろうと道路は閑散とし、ガソリンスタンドには甲子園のラジオ中継がボリューム大でガンガン鳴っている。試合中に会社へ電話しても繋がらないというくらい、みんな甲子園が大好きだ。こんな県、他にないだろう。
 だからこそ周囲の期待は膨らみ、甲子園出場は当たり前という異様な雰囲気のまま大会に突入する。3年生左腕エースと2年生のサイドスロー大矢の2本柱に加え、平均身長175センチ、どこからでも1発が出る超大型打線。下馬評も断トツだった。
 所詮1年生の俺は代打要員で、戦力というより次世代のための経験枠に近かったが、いつ出ても100%の力が出せられるように万全の準備は怠らなかった。面白いことに大会に入ったら一時中断と思っていた儀間からの愛のムチと先輩からのシゴキは、大会中も続き、むしろ大会中のほうがきつかった。
「大江、大会中だからってタルんでんじゃねえぞ。腐った根性を叩き直してやる!」聞いたような台詞で儀間はムツから叱責を浴びせられる鬱憤をぶつけるように殴ってきやがるし、
「調子に乗ってんじゃねえぞ、おら!」ベンチ外の先輩たちは自分たちが試合に出られないフラストレーションを吐き出すためにヤクザキックを続ける。ヤラれ続ける憎しみは時間とともに倍々になっていく。この憎しみをすべて野球にぶつけることで自分の中でバランスを取ろうとしたのが間違いだったのかもしれない。
 そして、甲子園間違いなしと言われていた沖縄実業が準決勝を3対2で惜敗してしまった。

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