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答えは必ず、あなたの中に

相談を受ける時、人によって対応方法は異なると思う。
アドバイスをする人。聴くことに重きを置く人。ただ隣にいてお茶を飲む人。
どれも不正解ではないし、正解でもない。一言だけでパッと未来が明るくなるような魔法の言葉はないから、ただただ愚直に向き合うしかない。

それは、カウンセラーさんも同じだそうだ。

藤田 琴子さんのnote「存在で癒すセラピスト」の感想note。

答えはあなたの中にある、と信じること

藤田さんが先生と呼ぶその人は、”「答えは必ず本人の中にある」「望ましい変化のためのカギは、全て本人の存在の中に備わっている」”と考えていたのだそうだ。

そして不思議なことに、先生がそういう前提でいるので、「必ず答えやカギが見つかる」のです。「必ず」です。カウンセラーがどういう前提に立っているか、そこから既に、カウンセリングのプロセスはスタートしているのでした。

「答えは必ず本人の中にある」と表現するのは簡単だけれど、それを前提として持ち続けるのはとても難しいことだと思う。

頼られると「力になりたい」と思う。救いを求められれば「助けになりたい」と思う。
しかし、藤田さんのnoteを読んで、考えさせられた。

「セラピストが『セラピストの椅子』にしがみつけばしがみつくほど、クライアントは『クライアントの椅子』にしがみつく」ともおっしゃっていました。「セラピストがクライアントを『治そうとする』」=「クライアントを『自力ではよくなれない存在』と見なしている」ということで、その見方自体が、クライアントから力を奪ってしまう、と。

わたしたちの持つ「力になりたい」「助けになりたい」も、同じようなものかもしれない。
力になろうとすればするほど、相手の力を奪ってしまう。助けになろうとすればするほど、相手を助けが必要な存在にしてしまう。
それは相手にとっても自分にとっても残念なことだ。

わたしが力になろうとせずとも、その人は自分の足で立ち上がれる。
わたしが助けになろうとせずとも、その人はきちんと自分を救える。

もちろん、誰かの力が必要な時もあるし、誰にも助けを求めずに生きている人なんていないんだけど、そうやって「相手の力を信じる」ことは、相談に乗るうえで不可欠なんだと思う。

存在としての肯定。存在としての信頼。存在としての癒し。

先生と接するだけで元気になり、一緒の空間にいるだけで力がみなぎってくる感じでした。事務連絡の電話をくださった時でさえも、受話器から暖かいエネルギーがゆるゆると流れ出てきて、灰色だったオフィスに色彩が加わる(最初に先生と電話で話した時、本当に起きました!)、そんな先生でした。

この文章を読むだけで、先生が藤田さんに対してどのように接し、藤田さんが先生のことをどう感じていたのかがよく分かる。

そして藤田さんは、こう続ける。

それは先生が、私自身の力や可能性を「当然あるもの」と見なし、私の存在自体に「絶対の信頼」を寄せてくださっていたからだと思います。

存在自体への、絶対的な信頼。
存在への信頼や存在への肯定は、人生において欠かせないもののひとつである。少なくともわたしは、(条件付きの信頼や肯定にひどく悩まされてきたので)無条件にその人の存在自体を大切にできる人でありたいと思っている。

存在としての肯定。
存在としての信頼。

その先には、存在としての癒しがあると思う。

「存在で癒すセラピスト」、そんな有り様が可能であることを、先生は示してくださいました。相手の力、可能性を「当然あるもの」と見なして接することで、本来の力を引き出し、自然と変化を引き起こしていた先生。ふと気づけば、今までよりも随分と楽に生きていけるよう導いてくれていた先生。

存在で癒す。
これを言葉で表すのは難しいけれど、藤田さんのnoteを読みながら、わたしもいつかこんな存在になりたいなぁと、そんな日が来たらいいなぁと、思い描いていた。

答えは必ず、あなたの中に

相談を受けた時、つい「力になりたい!」と意気込むけれど、そんな意気込みはいらないのだろう。

答えは、誰かが与えるものではない。
誰かが代わりに見つけるものでもない。
本人が知るものでもない。
だって、もう本人の中にあるのだから。

だからただフラットに、存在に寄り添う。存在を認め、尊重し、人と人として接する。
そういう関わり方を、していきたい。

takaren advent note 43日目

cotree advent note をひとつずつ紹介する。



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たかれん
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