東洋思想入門 #2 身体感覚で『論語』を読みなおす。 (2/4)
先週は學而第一・一から「學而時習之」を扱いました。小論語とも呼ばれる論語を代表する一節を、身体を表す漢字の意味合いを基にしながらその深みを味わっていただけたかと思います。
今週は、『論語』嫌いを生んでいる元凶とも言える「四十にして惑わず」から見ていきます。「不惑」に対する印象が少しでも変わり、人の持つ可能性に焦点を当てようとした孔子の考え方に触れていただければと思います。
為政第二・四はよく引用されますよね。改めて全文を見てみましょう。
子曰。吾十有五而志于學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲。不踰矩。
子曰わく、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず。
こうして並べてみると、全般的にポジティヴなメッセージであるのに、四十歳をいわゆる「不惑」と捉えるとそこだけ説教臭さがあるように感じ、違和感をおぼえます。では、安田さんはどのように捉えているのでしょうか。
孔子が生きた時代には「心」という文字がなかった、あるいはほとんど使われなかったということが本書の主要な主張です。このように考えると「惑」から「心」を除いた「或」を孔子は使ったのではないか、と安田さんは大胆な仮説を提示しています。
この仮説に従えば、「或」つまり境界がないことが「不或」であり、自分の現状の枠を取っ払うという意味合いとして捉えることができます。自分の現状に留まるのではなく、自分の内なる可能性を開発し、可能性を広げていくというイメージでしょうか。
この考え方は世阿弥の風姿花伝を彷彿とさせます。
人生で直面するそれぞれのステージにおいて、新たな可能性に目を向けるために過去のしがらみを断ち切るために初心を重視します。こうした捉え方は「不或」と通じるものがたしかにありそうです。
次に、これも有名な言葉である切磋琢磨について見てみましょう。
『論語』には孔子のたくさんの弟子たちが登場し、その中でも子貢はトップ5に入るくらい多く現れます。たいていは否定的に孔子から言われ、よく言えばいじられキャラのような扱いです。しかしながら、この切磋琢磨のところでは珍しく褒められているのです。
なぜ褒められているかというと、四書五経の一つである『詩経』の切磋琢磨を適切なタイミングで述べているからです。ではその切磋琢磨の意味合いを見てみましょう。
切磋琢磨の全ての字は何かに手を加えることを意味します。で手を加える対象は全て大事なものです。安田さんは、天から与えられた素材としての「性」を私たち全員が持っていて、それを自分自身で磨き上げていくことが大事であるとしています。
無理に自分の欠点を何とかしようとするのではなく、欠点をも含めて自分の「性」として受け容れて、その「性」に従って道を修めていく方法を見つけていくわけです。私たちにとって救いとなる考え方であるとも言えるのではないでしょうか。
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