何事も方法がある
体を軽くしたい。やはり何も食べず飲まずで二、三日暮らせばスッキリするものだろうか。出るものは出て、入れるもの入れない。水も抜く。
確かにお腹は減っていないのだ。喉も渇かない。なのに何故食べたり飲んだりするのか。一言。暇だからである。
暇潰しに飲食をしている。これがいけない。飲食がいけないのではなく、暇潰しの仕方を知らないのがいけない。本を読むのも、音楽を聴くのも、映画を観るのも、飽きている。あらかたそういうものはやってしまった。好き作家も決まっているし、新たに作品に出会いたいとも思わない。
とは言っても、ジムに行くのかと言えば、それもしんどいのだ。とにかく、体がだるく、頭が重く、心にぽっかり穴が空いたようで、何を入れてもドボドボ漏れ出してしまう。それでもできることと言ったら掃除、整理整頓、家計簿をつけるくらいだ。
暇潰しに、毎日、職場の掃除と、書類の整理と、パソコン内部の整理をやろうか。そうすれば一石二鳥だ。
だが、とにかく体が重く、だるく、うつ伏せになるのもしんどい。普通に体調が悪い。これは食事のせいばかりでもない。趣味がつまらないからでもない。
薬をちゃんと飲もう。体重計に乗ろう。なるたけ食べないようにしよう。体に気を遣おう。暇つぶしとして、掃除、ゴミ出し、デスク周りの整理、書類関係の整理、パソコンの整理を少しずつやろう。これは仕事ではない。暇つぶしだ。
家にずっといるのは良くない。朝起きたらとりあえず、職場に行く。歩く。余り食べない。
仕事こそ暇つぶしである。本気でやらない。
今日、三遊亭圓生を聴きながら歩いた。やはりというか、他をよく知らないからたいそうなことは言えないが、圓生と志ん生は良い。比較しても仕方ない。良いものは良い。
自分が好きだから良いのではない。そんな自分勝手な鑑賞態度は、結局、物の見方、感じ方が豊かにならない。知識が蓄えられない。
昨日の夜、マーティン•スコセッシ監督の『ディパーテッド』(原題 “The Departed”)の解説動画を見た。解説を聴いてよく分かった。批評家の仕事とは異なるのだろうが、映画の構造を教えてくれる人はありがたい。ああ、自分は何も分かっていなかったんだ、観たような気になって、実は何も見てなかったんだと確認させられる。
私は音楽や読書や映画といった「鑑賞」を趣味にしているなど偉そうに言っているが、その道のプロからすれば、アマチュアもアマチュア、やはり批評家は居た方がいい。鑑賞には方法があるのだ。自分勝手ではいけない。
何事も方法があり、構造があり、その道の人がいるものだ。 noteにもきっとその道のプロがいるのだ。
日記にも、ブログにも、自己分析にさえその道がある。方法に習熟するということ。その道を知りたい。