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ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3
2014年公開の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の原題は「Guardians of the Galaxy」なので、洋画や洋楽の邦題では省略されることが多い定冠詞や不定冠詞が含まれていないことを除けば、ほぼ原題をカタカナ表記しただけの邦題となっていた。
しかし、2017年公開の続編の邦題は「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」となってしまった。原題は「Guardians of the Galaxy Vol. 2」だ。普通なら、そのまま、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol. 2」とするか、Vol.という言葉が一般の日本人に浸透していないと判断すれば、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー PART 2」もしくは、ただの「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー2」でいいはずだ。
おそらく、こういうワケの分からない邦題になった理由は「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」という作品の日本での認知度が低いという判断なのだろう。だから、前作を見ていない人にも見てもらうために明らかに続編と分かる文言(数値)を外そうとしたのだと思う。
でも、リミックスだと音楽作品のリミックス・バージョンのように既存作品のバージョン違い(ディレクターズ・カットなど)だと思われてしまうのでは?あるいは、リブートとかリメイクの類、あるいは前作をパラレル・ワールド的な別ルートで描いた物語と勘違いする人もいるのでは?全くもって、意味不明な邦題だとしか言いようがなかったと思う。
しかも、1作目が日本で全然ヒットしていないならまだしも、興収10億円は突破しているんだよね。というか、そもそも、マーベル原作映画=マーベル・シネマティック・ユニバースということは知られていて、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」の時点でそれまでにユニバースにカウントされる映画が14作品もあったわけだから、前作を知らない人も何もないだろって思うんだけれど。
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そして、本作は「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3」という邦題になっている。原題は前作の表記パターンを引き継いで「Guardians of the Galaxy Vol. 3」となっている。今回の邦題はVOLUMEとVol.という表記の違いはあれど、基本、同じボリュームだから、ほぼ原題通りということになる。
前作の邦題ではナンバリングを外したのに、今回は数字入りというのは謎だ。まぁ、前作の邦題が酷評されたので、今回は原題準拠にしたんだろうね。
というか、これはこれまでの「GotG」2作品を好きな人に向けた作品だから、シリーズものであることを隠す邦題なんて付けたら、それこそ前作以上にクレームの嵐になると思う。
コロナ禍になってからのマーベル映画はソニー作品(というか、「スパイダーマン」関連)以外はつまらない作品ばかりだったが、これはここ数年のマーベル映画ではダントツに出来が良い。というか感動してしまった。まさか、「GotG」を見て涙を流すとは思わなかった。
良い楽曲が使われている映画は必ずしも傑作とは限らないが、音楽の使い方が上手い映画は傑作というのが持論だが、本作はまさにそのセオリー通りの作品だったと思う。
通常、ハリウッドの大作映画、特にアメコミ映画のエンド・クレジットって、歌ものを1曲流した後に延々とスコア曲が流れることが多いけれど、本作はきちんと最後まで懐メロで締めていたので、それは良かったと思う。
シリーズ1作目ではミックステープと呼んでいたのが、いつの間にかプレイリスト呼びに変わっていたのは時代の流れを感じたけれどね。
それから、これまでは70〜80年代の楽曲中心だったけれど、今回はオープニングにレディオヘッド“クリープ”のアコースティック・バージョンを使うなど、90年代の名曲・ヒット曲も選曲対象になっていた。
まぁ、1作目から9年経っていることを考えれば70〜80年代に次ぐ90年代の楽曲が使われてもおかしくないんだけれどね。
そして、大ヒット中の「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」に引き続き、本作でもビースティ・ボーイズの“ノー・スリープ・ティル・ブルックリン”が効果的に使われていた。
「マリオ」ではゲームの世界観をうまくアニメーション映画に落とし込んでいることを観客に理解してもらうシーンで使われていたが、本作ではエモーショナルな高揚感溢れるシーンで使われていた。
というか、「マリオ」も本作もクリス・プラット主演作品だ…。同時期に公開の話題作2本に主演し、どちらの作品でも同じ曲を使っているってすごいな。
ところで、ガモーラとかドラックス、マンティスって、あんなビジュアルだったっけ?ほぼ人間の見た目のままだしね。もう少し、クリーチャー・異星人っぽい印象だったんだけれど、自分の勘違いかな?
それはさておき、終盤に出てきた白い髪の子、可愛いな。何かロリになった気分だけれど。
そして、その子を含む子ども軍団が出てきてからの展開は何か、「マッドマックス/サンダードーム」とか「スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」(今は「ジェダイの帰還」って呼ばないといけなのか…)っぽい感じがした。まぁ、80年代っぽいテイストをわざと出しているんだろうね。
あと、シルヴェスター・スタローンってよく考えたら、DC映画とマーベル映画の両方に出ているよね。批評家には無視されることも多いけれど、同業者や映画人には愛されているってことかな。
それにしても、ガモーラ役のゾーイ・サルダナって本シリーズでは緑の体だし、「アバター」シリーズでは青いし、素顔を見せない当たり役が多いよね。まぁ、ガモーラと主人公・ピーターの関係が曖昧な感じで終わったのはちょっと不満だったかな…。
ところで本作って、明らかに敵役はリベラル思想の人たちだよね。しかも、そのボスは黒人だし。「シン・仮面ライダー」もそうだったけれど、理想の世界を作るためなら、多少の犠牲は仕方ないみたいな考えはそりゃ、一般市民には嫌われるよね。結局、リベラルの連中って世間知らずの金持ちばかりだから、ギリギリの生活をしている一般市民のことが分からず机上の空論を語ってしまうんだよね。そういうのがリベラル・左翼・パヨクが嫌われる理由なんだよね。
日本映画界はミニシアター系を除けば、元々、ポリコレ思想は薄かったけれど、最近はハリウッドの映画人もそういうポリコレ至上主義に嫌気がさしてきたって感じなのかな。
やっぱり、過度なポリコレは作品をつまらなくするよねというのを本作を見て改めて思った。元々、ヒーローものというのはマイノリティのキャラクターの話なんだから、余計なポリコレ要素を足すとトゥー・マッチになっちゃうんだよね。
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ところで、日本のアニメなどでは瀕死状態の人物が黄泉の世界の手前で故人と出会い、“あなたはまだこちらに来る時じゃない”みたいなことを言われて意識を取り戻し現生に戻るという場面をよく見かけるが、ハリウッド作品でもそういう描写ってあるんだね。