The Hand of God
毎年秋から年末にかけての恒例行事となりつつある賞レース向きNetflix映画の連続限定上映で紹介される作品は基本、台詞が英語の米国映画だ。「2人のローマ教皇」は英国、「パワー・オブ・ザ・ドッグ」はニュージーランドが主な製作国だが、いずれも米国資本が入っている。
ただ、ごく稀に非英語圏作品がこの限定上映のラインナップに入ることもある。2019年のアニメーション映画「失くした体」はフランス作品で、これは完全なネトフリのオリジナル作品ではなく、本国フランスなど一部を除いた地域でのみネトフリが配信および劇場での配給を担当するという形になった。ちなみに同作はアカデミー長編アニメーション賞に見事ノミネートされた。
本作「The Hand of God」はイタリア映画だが、「失くした体」とは異なり、映画祭での上映を除けば、ネトフリによって全世界に配信されるというパターンになっている。なので、こちらはネトフリオリジナル映画扱いでいいのだとは思う。というか、本編にNetflixプレゼンツとクレジットされているから確実にネトフリ映画と呼んでいいと思う。
そして、そんな非英語圏作品であるために、本作は他のネトフリ映画よりも上映館数・回数が少なくなっていた。23区内では2館(ヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋)でしか上映されない上に、いずれも上映は1日1回で、しかも日中(18時まで)に上映が終了しない時間帯でしか上映されない。なので仕方なく23区を飛び出してアップリンク吉祥寺で見ることにした。
本当はアップリンク吉祥寺には行きたくなかったんだけれどね。
去年のネトフリ作品連続上映の時も本音を言えば、アップリンクで作品を見たくはなかった。それは、社長の浅井隆による従業員へのパワハラ・セクハラが明らかになったからだ。でも、和解協議が進められている上に、深田晃司監督などが自作品のアップリンクでの上映を取りやめるなど改善の余地はあるとの希望的観測から、当時は存在していたアップリンク渋谷、そして今も存在するアップリンク吉祥寺でネトフリ映画の限定上映を鑑賞することにした。結局、去年上映された5作品のうち、3本をアップリンク系の劇場で見るハメになってしまった…。
去年の連続上映の第1弾だった「シカゴ7裁判」はアップリンク渋谷でも上映されたのに、それ以降の作品の都内でのアップリンク系劇場での上映は吉祥寺のみになり、渋谷地区での上映がヒューマントラストシネマ渋谷に移ったのは、同じアップリンクでも渋谷の方が浅井色が強くイメージが良くないという思いがネトフリ側にもあったのではないかと思う。浅井が社長を辞めないのでは結局、何も変わらないと思うのは当たり前のことだしね。
今年の連続上映は比較的、シネ・リーブル池袋や全作品は上映しないもののイオンシネマ板橋あたりでも見やすい日中の時間帯に上映されたので今年はアップリンク吉祥寺に行かなくて済むかなと思ったが、残念ながら今年の7作品連続上映の6本目にして行かざるをえない状況になってしまった。
本当は行きたくなかったんだよね…。
何故なら、最近、浅井が全然反省していないことが分かったからだ。
浅井がアップリンクに対して批判的なコメントをしていた深田晃司監督を誹謗中傷するメールや、浅井の社長退陣を求める従業員に対して“そっちが辞めろ”といったメールを送っていたらしい。しかも、第三者のフリをして送っていたとか…。これはもうダメでしょ。
映画文化を守るとかミニシアター文化を守るとか、そういう話で浅井を甘やかしてきたせいで、つけあがっているとしか思えない。
今年5月に閉館となった渋谷だけでなく、吉祥寺も含めたアップリンクの全ての施設を閉鎖しないとダメでしょ。渋谷があったころはまだ、吉祥寺は浅井の影響力が薄れていたかもしれないが、今は吉祥寺が本拠地なわけだから、なおさら、行きたくない映画館になってしまったしね…。
自浄能力のない日本の映画業界の話でいえば、映画秘宝も酷いよね。当時の編集長による一般女性への恫喝問題が起きたのは今年のはじめなのに、いまだに映画秘宝は公式な謝罪文を発表していないんだからね。しかも、新しい編集長は問題についてスルーしているしね。
そんな状況に業を煮やした編集部員たちがつい先日、退職を表明したけれど、これもアップリンクの問題と根底にあるのは同じだからね。
アップリンクにしろ、映画秘宝にしろ、普段から日本の自民党や米国の共和党のような保守的権力を批判しておきながら、実際は、自分たちがそれよりも酷い独裁者なんだから笑ってしまうよね。
そんなわけで、乗り気がしないアップリンク吉祥寺へ出かけて本作を鑑賞した。
一言で感想を言えば、つまらなくはないが、なかなか酷い映画っで感じかな。
こんなレベルの映画で賞レースを賑わせてはダメだよ。本当、今のネトフリって、かつてのミラマックスみたいな存在になっている気がする。
そんなに名作と呼べるほどの出来ではない作品を大量の資金を使ったキャンペーンで賞レースに参戦させて、いかにも名作のように思わせるところとかそっくりだよね。
同じイタリア映画絡みでいえば、ミラマックスが凡作の「イル・ポスティーノ」をアカデミー作品賞ノミネートに成功させたことにも通じると思う。ミラマックスがアカデミー作品賞ノミネートに成功させたイタリア映画といえば、ほかにも「ライフ・イズ・ビューティフル」もあるが、あれも過大評価だよね。前半のコミカルな部分は面白いけれど、後半なんて、よくあるユダヤ人虐殺ものと変わりないしね。
タイトルは、いうまでもなくディエゴ・マラドーナがハンドでゴールを決めた、いわゆる神の手ゴールにちなんだものだ。
でも、本作における神の手ゴールの扱われ方は、作中で明確に、何年何月の出来事とは言及されていないとはいえ、ちょっと、史実と違うのではないかという気がする。
少なくとも、神の手ゴールにちなんだタイトルをつけた映画なんだから、マラドーナが主人公と思われる少年たちの住むナポリにやって来たことによって、人生が変わった人たちの話なのか、それとも、神の手ゴール騒動が起きた試合で賭けをしていて、その神の手ゴールのために賭けに負けたとか大勝ちした人の話なのかと思ってしまうが、全くそうではない。それどころか主人公はそんなにサッカーに執着していない。
直接、もしくは間接的にサッカーやマラドーナがストーリーに影響を与えたのって、主人公が街中でマラドーナと思われる人物に遭遇したとか、親の仕事がサッカーチームのナポリに関係していたとか、サッカーの試合を見に行っていたために親の死に目にあえなかったというくらいしかない。
それどころか、この主人公は映画監督を目指しているらしい。最初、台詞にゼフィレッリと出てきたけれど、まさか、ウィリアム・シェイクスピア戯曲の映画化作品でおなじみのフランコ・ゼフィレッリ監督の話ではないよねと思いながら見ていたら、本当にゼフィレッリ監督のことだった。しかも、フェデリコ・フェリーニ監督まで登場した。
そして、主人公はナポリを拠点とする映画監督のファンを名乗っているし、さらには、身内には俳優を目指している者もいる。でも、この主人公、映画監督を目指しているという割には映画は3〜4本しか見ていないと言うし、憧れの監督に“安易にローマになんか行かずに地元ナポリで映画を作れ”とアドバイスを受けたのに無視してローマに向かうし、本当、何がやりたいのか分からない。というか、主人公が映画監督を目指しているのって、たまたま目にした撮影現場で見かけた女優にガチ恋していたからという理由なだけでしょ。
まぁ、本作のメガホンをとったパオロ・ソレンティーノ監督の自伝的作品らしいから、話の整合性が取れていないのは当然なんだけれどね。
現実世界なんて、小説や脚本のように動機付けに基づいて行動なんてしていないしね。矛盾だらけだからね。だから、実話をもとにした映画ってずるいんだよね。デタラメな話でも言い訳できるからね。
あと、舞台となった80年代の空気感を描いたってことなんだろうけれど、性的な描写も多いし(中には高齢女性が高校生の主人公の童貞喪失を手伝うなんていうシーンもある)、暴力的なシーンも多い。さらに、障害や体型に関する差別的な言動も目立つ。いくら、実話ベースとはいえ、今のポリコレ至上主義の米映画賞レースでは評価されないんじゃないかなって思う。アカデミー国際映画賞のイタリア代表作品として出品されているらしいが、ネトフリがキャンペーンに金を使いまくれば別だが、そうでもなければノミネートは無理でしょ。
ところで、本作が東京国際映画祭で上映された際も、劇場での限定上映が決まった時も「Hand of God -神の手が触れた日-」という邦題で紹介されていたのに、実際に上映された作品に焼き込まれたスーパーやポスターなどでは、「THE HAND OF GOD」と英語原題の英語大文字表記。キネノートやネット記事、上映館のスケジュール表などでは、「The Hand of God」と大文字と小文字が混じった英語表記と邦題が変更されているのは何故?しかも、表記が統一されていない。
“ザ”がないと、アマゾンのドラマシリーズ「ハンド・オブ・ゴッド」と混同されるから、ネトフリとしてはライバルの宣伝をするようなことはしたくないとして、“ザ”をつけ、しかも、アマゾンと区別するために英語表記にしたのかな?
《追記》
エンド・クレジットの際にベースが黒味でなく、映像が流れているパターンの時があるが(ラスト・シーンの続きだったり、ラスト・シーンとは別映像だったりは作品による)、その際に途中で背景の映像がなくなり、結局、黒味になるのってなんなんだ?本作もそうだけれどね。
まだ、キャスト紹介ブロックが終わって、スタッフ一覧になったところとか、エンド・クレジット後半に出てくるスタッフ数の多いCGとかVFX担当者のブロック、あるいは、使用楽曲の多い作品だったら、音楽クレジットのブロックとかの辺りから、そうなるのら分かるんだけれど、大抵、中途半端なところでなるんだよね。
おそらく、エンド・クレジットがどのくらいの長さか考えずに撮っているから、使える尺とエンド・クレジットのキリのいいところのタイミングが合わないだけなんだろうけれどね。