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ロボット・ドリームズ

第96回アカデミー賞の長編アニメーション賞にノミネートされた5本の中で日本公開(配信オンリー含む)が一番最後となったのが本作だ。一時期はノミネートされても日本公開されない作品もちょくちょくあったが、最近は配信オンリーも含めれば、何とか日本公開されているので邦高洋低と呼ばれる興行事情が常態化した現状を鑑みれば、他のジャンルより恵まれていると言えるのだろうか?

もっとも、米国産ドリームワークス作品は相変わらず日本公開が見送られ、いわゆるビデオスルーになることが多い。日本公開2018年3月の「ボス・ベイビー」以降、日本では東宝東和の配給(のちにギャガとの共同配給)により劇場公開されるようになり、一時期のほぼ全作品ビデオスルーという状態よりはマシになったが、それでも、同作以降のドリームワークスの長編アニメーション映画14本のうち、日本公開されたのは賞レースを意識して来年2月に日本公開予定の「野生の島のロズ」を含めて半分の7本しかない。

また、コロナ禍に配信オンリー(海外の一部市場では限定公開された)で発表されたピクサーの長編作品が今春にまとめて連続公開されたが、日本語吹替版でしか上映されなかった。

さらに、Netflixの配信アニメーション映画も国産作品を除けば日本で劇場公開されることはほとんどない。

だから、海外アニメーションを巡る環境がそれほど良いものでないのも事実だ。あくまで、コメディ映画やホラー映画、黒人差別問題を扱ったシリアスドラマ作品に比べたら、賞レースを賑わせた作品が多少遅れはするかも知れないけれど、劇場で見られる機会が多いよねといったレベルに過ぎない。

基本、アカデミー長編アニメーション賞にノミネートされるには、技術・芸術面で特筆するものがあるか、政治的、社会的なメッセージがあるか、そういう点が判断基準となる。

日本のアニオタがCGを嫌うから手描きアニメにこだわりつつけいるし、日本のアニオタにネトウヨが多いからメッセージ性を抑えた作品になってしまう。
スタジオジブリ以外の国産アニメ映画で同賞にノミネートされたのが細田守の「未来のミライ」しかないのはそういう理由だと思う。

そうした観点からすれば、本作は非常に賞レース向きの作品だと思う。



この映画は擬人化された動物が人間のように暮らしている世界を舞台にした作品だ。「ズートピア」とか「SING/シング」、「オッドタクシー」といった作品みたいな世界観だ(「オッドタクシー」は厳密には違うけれど)。

言うまでもなく、擬人化された動物たちの交流というのは人種問題のメタファーだ。「オッドタクシー」は違うけれどね。
しかも、本作はロボットという生き物でない“種族”との交流も描かれているし、そのロボットは途中で片脚を失ってしまうから、障害者への差別問題も含まれていると見ていいと思う。

また、呻き声とか鳴き声のようなものは聞こえるし、効果音や音楽は鳴っているけれど、きちんとした台詞はないというタイプの作品だ。
本作はスペイン=フランス合作映画だが、こうした演出はアニメーション映画では時々見かける方法で、ラトビアのギンツ・ジルバロディス監督が「Away」や「Flow」でこの手法を取っている。同監督作品は映画祭や映画賞で高い評価を受けているし、フランスはアカデミー作品賞受賞作であるサイレント映画(これも完全な無音ではない)「アーティスト」を生み出した国でもある。台詞なしで一気に見せる演出は説明台詞過多の最近の映画に嫌気がさしている映画通や批評家には評価されやすいと思う。

作画的にはリアルに動くハリウッド製のCGアニメーションともきれいな画を見せる日本のアニメとも違う。でも、アニメーションというのは生命のない動かないものに命を与えて動かすことが語源なのだから、リアルに動くこともきれいに描くこともマストではない。画がいきいきと動いていればいい。そういう意味ではこうした欧州のアニメーションの方が本来の意味に近いのではないかと思う。

そんなうんちくはさておき、ストーリー自体も非常に感動的だった。

主人公はニューヨークで生活する孤独な(擬人化された)犬。これだけでもじーんと来る。映画でも音楽でもアニメでもアイドルでもいいが、世の中の何らかのオタクはこの設定の主人公を見ているだけで泣けてくるのでは?

その主人公が通販でロボットを買い、そのロボットとあっという間に深い関係になる。

その絆を深めてくれたのがアース・ウインド&ファイヤーの代表曲の一つ“セプテンバー”で、この曲は事実上の主題歌となっている。この曲をアレンジしたスコアも流れている。

しかし、主人公と出かけた先のビーチで燃料切れか何かのトラブルが発生し、ロボットは動けなくなってしまう。ビーチが閉鎖されるのが9月ということは、主人公とロボットがセントラルパークで一緒に踊って絆を深めたのもこの楽曲同様、9月なのだろう。そう考えると、出会いから別れまでの期間は「ロミオとジュリエット」とまでは行かなくてもかなり短いということになるが。

そして、それから、主人公とロボットは再会の日を何度も妄想することになる。これがタイトルの由来なのだろう。

普通の映画なら、両者が再会してメデタシメデタシで終わるが、本作はそうはならない。“セプテンバー”を通じて、両者は間接的に再会を果たす。しかし、どちらも今は新しいパートナーがいる。そのパートナーを捨てて元のサヤにおさまるというのは、今のパートナーに対して失礼だ。だから、一瞬、心を通わせるけれど、再び別の道を歩むことを決意するというエンディングだ。

分かりやすく言えば、「街の灯」や「ラ・ラ・ランド」だ。そりゃ、批評家やシネフィルが絶賛するよ。一般的な男性は「ラ・ラ・ランド」を受け入れられないようだが、クリエイティブ職に就いている人間なら、すれ違いの関係と、もう一つの人生の妄想というのはすごくよく分かるからね。なので、本作の終わり方も非常に感動的だった。



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